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堀利煕(ほりとしひろ)の墓  (堀織部正)  


 旗本の堀利煕は、1854年(嘉永7年)に樺太を探索した。このとき、榎本武揚・島義勇らを同行させている。その後、箱館奉行を務め、自ら蝦夷地を巡視し、さらにアイヌへの種痘をおこなわせるなど蝦夷地開拓に努めた。
 要するに、樺太探検した一番偉い人が堀利煕なわけで、通常こういう偉い人は役所にとどまり探検などしないのに、堀利煕は自ら蝦夷地や樺太を巡視している。

 1858年(安政5年)には、新設された外国奉行に就任するとともに神奈川奉行を兼任し、諸外国との交渉に当たり、安政五カ国条約のうち、日露、日英、日仏修好通商条約に調印した。プロイセンとの交渉で秘密交渉を行ったことを追及されると、条約締結前に切腹した。享年43歳。



 墓所:東京都文京区小石川 「浄土宗 常光山 源覚寺」(通称、こんにゃく閻魔)

 「こんにゃく閻魔」は地下鉄後楽園駅、あるいは春日駅下車徒歩数分。

閻魔堂 右目がつぶれた閻魔様
こんにゃくを供えると眼病が治るとか



入って左奥にある墓地の一番奥に堀利煕の墓がある。
文京区の案内板が建ててあるので場所はすぐわかるが、ここには、堀家の墓石が林立状態なので、どれが堀利煕の墓石なのか戸惑う。





 阿弥陀如来座像の真後にあって「織部正爽烈堀府君之墓」と刻まれているのが堀利煕の墓石です。


こんにゃく閻魔の鐘は、昭和12年にサイパンの南洋寺に搬出された。戦争中に一時行方不明となったがアメリカ・テキサス州で発見され、その後戻っている。


最終更新 2019.6


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