対岸から見た稲佐の夜景
(作成中)
稲佐は、約50年もの間、ロシア艦隊が越冬するための滞在地として賑わい、ロシアと深い関わりをもった。いわゆる「ロシア村」の名前は、遥か母国にまで知れ渡るほどだった。
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悟真寺とロシア人墓地
慶長3年(1598)、筑後善導寺の聖誉玄故上人により開創された、現存する長崎最古の寺院です。当時、キリスト教の布教により長崎の仏教の廃退を危惧した聖誉は、再興を願い来崎し、昼は岩窟に隠れながら布教を続けたといわれています。慶長7年(1602)唐商・欧華宇と張吉泉が来日し、以後、唐人の菩提所とされ、100間四方の土地が唐人墓地となりました。慶安2年(1649)に死去したオランダ特派使節の埋葬機に同寺にオランダ人墓地が開設、その後、幕末頃からロシア人墓地も開設されました。江戸時代に再建された本堂などは原爆で焼失しました。山門は幕末の頃のもので、明治36年(1903)、大改修されました。(悟真寺の説明看板)
悟真寺山門 |
日ソ友好の碑(碑文には次のように書かれています) 1858年(安政5年)いらいこの墓地に祀られているロシア海軍将兵らに、捧げられた墓群を大事に供養して頂いている長崎の市民の皆さんに深い謝意を表します。1990年10月21日 |
ロシア人墓地入り口 関係者以外立ち入らないように書かれていました。 |
露西亜マタロス休息所
悟真寺前バス停向かいの案内看板 |
悟真寺前の看板から、道の向かい側を撮ったもの。 右の灰色っぽいビルは大平歯科。露西亜マタロス休息所は大平歯科あたりから北側(写真の左側)に広がっていたようです。 |
悟真寺前の看板の北側を撮ったもの。 このあたりも、かつては露西亜マタロス休息所だったようです。 |
露西亜マタロス休息所がどこにあったのか、今では、その気配を示す場所は全くない。写真は、そばにあった、稲佐山登道路入り口の道標。 |
道永栄(エイ)
〈1860〜1927熊本県(天草)生まれ〉明治13年(1880)頃稲佐に移り、ロシア将校クラブで働くことになりました。当時、ウラジオストックを本拠としたロシアの艦隊が冬季、長崎港に大挙入港したので、稲佐はロシア人の町として空前の賑わいを呈していました。お栄は持ち前の気風の良さと社交性で、ロシア人達の憧れの女性となり、「稲佐お栄」と呼ばれましたが、その名は遠くロシアの宮廷にまで聞こえたといいます。お栄が本宅兼ホテルを建てたのは、明治33年(1900)のことで、本宅は木造2階建て、ホテルは木造平屋建でした。ロシア皇太子ニコラス2世が来訪の際やクロバトキンらロシア貴族将校などの接待には、お栄が幹事をつとめました。お墓は、現在朝日小学校の下にあります。(説明看板)
3枚の写真は、いずれも同じ場所(長崎市丸尾町にある長崎市西公民館の裏側)で撮ったものです。
ロシア皇太子ニコラス2世がお忍びで上陸した際の相手については定かではないが、エイという説、芸妓菊奴という説などがある。
検梅
露西亜マタロス休息所では、遊女に対する検梅が行われた。その後、検梅は日本全国に広まり、昭和31年に売春防止法が制定されるまで続けられた。
露西亜マタロス休息所で使われた検梅台の写真が残されている。だいたい、図のような感じです(肘掛は図では直線であるが、実際には湾曲している)。
渡辺淳一の『長崎ロシア遊女館』は最初に検梅が行われたときの事を題材とした小説ですが、検梅台の写真を見ると、実際の検梅の様子は小説とは違うようです。
参考文献:
『ながさき稲佐ロシア村』松竹秀雄 (長崎文献社)2009
『稲佐さるくロシア村』(『ながさき稲佐ロシア村』の付録冊子)
『丸山遊女と唐紅毛人 後編』古賀十二郎(長崎文献社)昭和44年
『からゆきさん』森崎和江(朝日新聞社)昭和51年5月
『長崎ロシア遊女館』 渡辺淳一(講談社文庫)
『ロシア人士官と稲佐のラシャメンとの“結婚”生活について』中條直樹、宮崎千穂(言語文化論集 第XXIII巻 第1号)2001
『ロシア人の見たロシア人士官と稲佐のラシャメンの“結婚”について』中條直樹、宮崎千穂(言語文化論集 第XXIII巻 第2号)2002
『不平等条約下における内地雑居問題の一考察―ロシア艦隊と稲佐における「居留地外雑居」問題―』宮崎千穂 (国際開発研究フォーラム 27)2004.
8
『外国軍隊と港湾都市―明治30年代前半における雲仙のロシア艦隊サナトリウム建設計画を中心に―』宮崎千穂 (スラヴ研究)2008
『「からゆき」という歴史事象創出の背景 : 「性的自立性」の多様性』嶽本新奈(言語社会)2008.3
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