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近藤重蔵の墓


 1798年、幕府から蝦夷地調査を命じられ、最上徳内とともに択捉島にわたり、ロシア人の立てた十字架を無断で倒した跡地に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。当時、ロシアでは、十字架を立てることがロシアの領土宣言となっていた。これより前の1786年、最上徳内は択捉島に日本人最初の探検家として上陸し、そこにロシア人が暮らしていることを確認しているが、重蔵が上陸したときにはロシア人は居住していなかった。
 このように、ロシア人の先住を知りながら、ロシア人の十字架を無断で倒して「大日本恵登呂府」の標柱を立てたので、日本政府は「択捉島は日本固有の領土」としている。

墓所:東京都文京区向ヶ丘1−13−8 西善寺

墓地の左奥に立派なお墓があり、東京都教育委員会の看板が立っている。





このほか、滋賀県高島市勝野1796 臨済宗・瑞雪院に墓地がある。ここはJR近江高島駅の西方約500mほどのところ。




近藤重蔵の石像

 近藤重蔵は鎧兜に身を固め択捉島に渡ったと言われている。船に乗るときに体に重りをつけたならば、海難事故の時に確実に死ぬことぐらい容易にわかりそうなものだが、重蔵はよほど無知だったのだろうか。

東京都北区滝野川2-49-5 正受院

門をくぐると左手の木の下にぽつんと置かれていました。

顔がつぶれている
どう見ても、大切にされていないような
説明書きは木の間で読みにくい 正受院

最終更新 2016.5.15


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