日露関係ゆかりの地
北海道 松前町
松前城
現在、内部は資料館になっている。
シャクシャイン耳塚
松前城の裏側(松前神社向かいの広場の奥)に、シャクシャイン耳塚が築かれている。
説明の立て札には、「松前藩は・・・シャクシャインたちをだまし討ちにして戦いは終わりました」と、松前藩が卑怯な策を使ったことが明記されている。松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出、和睦の酒宴で謀殺した。
松前藩墓所
松前家の菩堤寺・法幢寺に松前家の墓所がある。写真の場所を左折すると法幢寺本堂があり、近くに松前家の位牌堂が立てられている。墓所は、この道を直進した突き当たり。
墓所はこんな感じで多くの墓は小さな家の中。
初代藩主・慶広の墓は、質素。 | 『性智院殿真珠蟻穿大姉』と刻まれた墓石があった。 松前藩主側室の墓だろうか。それにしても、不思議な戒名だ。 性をよく知っている、真珠と蟻の穴で生きていた女だったのか。 |
ゴローニン事件
1811年、国後島沖に停泊して交渉を求めたGolovninを、日本は背徳的裏切りで捕らえた。このため、ロシアでは、国後島最南の湾を「Залив ИЗМЕНЫ(裏切り湾)」という。
翌年、ゴローニンの部下、リコルドが、日本人漂流民との身柄交換を求めるが、日本はゴローニンを処刑したと嘘をついて、交渉を拒絶した。
捕らえられたゴローニンは、松前藩に連行された。松前町郷土資料館の手前に、徳山大神宮があるが、ここに、「ロシア人 ゴローニン外 幽閉地」の碑が建てられている。実際の幽閉地は、ここから200mほど沢を入った所だった。碑文の横にある看板には、日本が嘘をついて捕らえたことは記されていない。
沖口役所
松前藩は松前・江差・函館に沖口役所を置き、出入りを取り締まった。
松前町郷土資料館に展示してある、沖口役所・標柱 | 沖口広場の沖口役所・標柱 沖口広場は松前城公園入口近くにある。 |
松前奉行所跡
現在、松前奉行所跡は、松前町役場になっている。役場庁舎に「松前奉行所跡」の看板が立てられている。
アイヌの弾圧
写真は松前町郷土資料館の解説。
中川五郎治
中川五郎治は択捉島番屋にて、番人小頭として、漁場取締りをしていた。1807年、ロシアの軍人フヴォストフの襲撃で捕虜となり、シベリアに連行された。このとき、ロシア人医師の助手となり種痘法を習得し、帰国後、松前・函館を中心に、種痘を実践した。
松前公園に「中川五郎治顕彰の碑」が建てられている | 近くの法源寺墓地には、中川五郎治の墓を示す看板が有ったが、 実際の墓がどれなのだか、分からなかった |
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