日露関係ゆかりの地

水戸市の尼港事件記念碑
  

最終更新 2019/7

シベリア出兵と尼港事件
 1918(大正7)年4月、日本は東部シベリア最大の要地ウラディヴォストークに陸戦隊を上陸させて革命軍勢力の拡大を牽制し、連合国に出兵を図った。理由はこの地にある軍需資材が独墺軍に流れることを止め、またボルシェヴィキ勢力の拡大を抑さえるというのであり、その陰にはシベリアにおけるヘゲモニーを握ろうという意図が隠されていた。アメリカは初め出兵に反対したが、チェコ軍救援問題が起こったので7月、共同干渉に同意した。チェコ軍はもとオーストリア・ハンガリーから独立しようとしてロシア軍と合体して戦ったのだが、革命後シベリァを経て太平洋からアメリカ、さらにヨーロッパへ戻ろうとし、1万余りの軍がウラディヴォストークに集結した。ところかチェコ軍はこの間反革命勢力となりソヴィエト政権と戦うようになったので、連合国はこれを援助しようとしたのである。8月2日、日本は出兵宣言を行い、米英仏軍もあいついでいで兵を出した。日本軍は第12師団を送り、8月11日ウラディヴォストークに入港、翌日上陸した。
 はじめの協定は日本軍1万7000人、アメリカ軍7000人、英仏軍5800人というのであったが、日本は独断で増兵し、満州から第7・第3師団を送り込んで、9月までにババロフスク・ブロゴウェシチェンスク・チタ・イルクーツクを占領し、樺太に近いニコラエフスク(尼港)にも陸戦隊を送った。こうして日本軍兵力は7万2000名にも達し、シベリアー帯に勢力を伸ばした。
 アメリカは1920年初めからチェコ軍救出の目的を達したとして撤兵を始めたが、日本は依然駐屯した。そのためソヴィエト民衆の反日感情が高まり、1920年5月には日本軍と日本人居留民が全滅させられる尼港事件も起こったのである。しかし、1921〜22年のワシントン会議でシベリア撤兵問題が取り上げられ、日本も出兵の失敗を認めていたため北樺太を除く地域からの撤兵は22年に実施された。こうして日本は4年間の駐兵10億円を消費し、3万5000名の犠牲者を出して、何ら得るところなく引き揚げるに至った。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版2011.3 P616)

 日本人の殺害はたしかに不当なものであったが、この惨劇の因は日本軍の干渉そのものにあったといえる。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版1992.4 P587) 


 水戸歩兵第2聯隊第3大隊が日本守備隊として当たった関係で、水戸に「尼港殉難者記念碑」が建てられている。場所は茨城県水戸市堀原・堀原運動公園向かいの公園内。



 日本人の殺害はたしかに不当なものであったが、この惨劇の因は日本軍の干渉そのものにあったといえる。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版1992.4 P587)

 記念碑横の解説版では、単に日本人の犠牲のみを書き連ねるばかり。


 台湾占領以降、日本は国を挙げてアヘン密売を行う。日露戦争後のシベリアにおいても同様で、ニコライエフスクが阿片集積・密輸の拠点となっていたため、アヘン密売に関与している日本人が多数居住していた。尼港事件の日本人犠牲者の半数は朝鮮人だったが、これら朝鮮人のほとんどは、阿片関係者やその家族だった。日本人には、官憲なども多かったので、全員が阿片関係者というわけではない。

 日本の阿片王・二反長音蔵の息子で絵本作家の二反長半は音蔵の遺品の資料などを基に、シベリアにおける阿片栽培について以下のように記している。

二反長半/著『戦争と日本阿片史』すばる書房(1977.8)  P184-P189

尼市特務機関阿片調査書
 日本の勢力は、中国大陸だけでなく、北、ソ連領に食い込んでいた。長鼓峰で停戦協定を結ぶ前、大正時代には、シベリア東海岸は、まったく日本領同然で、ニコラエフスク、ウラジオストクには日本民間人はもちろん、日本軍隊までが出動していた。革命によって追い込まれた白系露人が、日本の援助下にあり、手を握って赤系露人と一戦を戦わすつもりだつた。
 そうした中にあって、ソビエト政府は、日本との国交回復を提議してきているのだ。しかし、領土拡張の野心をシベリアにまでもっている日本は、さいしょチェコ兵援助のためとの名目の出兵であったのを、満州、朝鮮への過激派の進出阻止のためと変更して、駐留を決定、シベリアの政情が安定するまで撤兵しないと声明した。
 が、周辺には労働者、農民で組織された遊撃隊パルチザンが散在していて、これまたいつどこで何を起こすかわからない。ニコラエフスク駐留の日本軍は、そのパルチザン攻撃の行動を起こした。しかし零下何十度という寒地での戦いだし、パルチザンの戦闘力はあなどりがたかった。シベリア馬賊ゲリラ隊とでもいおうか、日本軍はさんざんの敗北で、日本水雷艇が黒竜江口に姿を現すと、パルチザンは、一斉にニコラエフスク攻撃へと転じた。
 火は炎々と燃えあがり、市街はまたたくまに焦土と化し、日本人住民は無惨な死体となってるいるいところがった。女子供を問わない。パルチザンは、それらの死体を黒竜江にはこび氷上に投げすてた。その数なんと五千を超えた。氷が溶けはじめると死体は泥濘の水底に沈み、その悲惨さは想像を絶した。
 いわゆる尼港事件と称せられるのがこれだ。が、いったいこの惨劇を起こした原因はどこにあるのか。「大正九年五月二十五日、国民よ忘るる勿れ」と、徳富蘇峰の国民新聞が書き、それは日本国民の胸底につよく刺すように焼きついた。
 が、このことは他民族の安住地領土奪取を目的とする侵略政策、植民地政策をとれば必ず起こる結論ではないのだろうか。
 日中事変における日本軍の行動。第二次大戦におけるドイツヒトラーのユダヤ人の虐殺。その他アメリカの原爆投下、生命を軽視する思想は、こうして、戦争が大規模になればなるほどエスカレートしていってしまったのだ。
 尼港事件のごときは、今にしてみればその一端としか思えない。だが、開国間もない日本にとっては日清、日露で勝利を得、列強と並んで、時の国策強国政策畜国強兵植民地主義にふみきり、一途にその実現へと適進していただけに腹にすえかねた。ただちに、これを理由に日本は大軍を出動させ、沿海州全域にわたり、覇権をにぎった。そして駐在していたロシア軍全員七千名を武装解除してしまったのだ。
 シベリアにおける日本の勢力は強力となり、パルチザンは逃走、手の出しようもなかった。
 この寒地帯シベリアにも、温暖の季節には白いケシの花が咲いた。熟したケシ坊主がっぼからは飴色の阿片が採取された。シベリア阿片は、その後日本軍撤退満州国建国太平洋戦争中も絶えることなく栽培されつづけ記録として私の手元にある大正十年九月、尼市特務機関が調査した「第十一師団駐屯区域内鮮人阿片栽培調査書」なるものの写しによると、こうなっている。「本書ハ当機関勤務歩兵中尉西川幸一ヲシテ編纂セシメタルモノニシテ……」とあり、尼市特務機関長井上忠也とある。そして、その調査書は、「第一章 尼市附近阿片栽培ノ経過」から始まり、「ソノ製造法、費用収益、駐屯地附近ノ産地及産額、取引ノ景況及露国官憲、阿片ノ鮮人二及ボセル影響、阿片ト馬賊、阿片耕作二対スル鮮人ノ意向及将来ー」と、八章にわたり、実に詳細をきわめている。
 "阿片ハ今ヨリ約三十年前既二.露領二栽培スルモノアリシガ西歴千九百十年東清鉄道沿線ノ開拓二伴ヒ露支条約ヲ結ビ露国二於テ阿片栽培ヲナシ、支那二輸出セザル交換条件トシテ支那二於テハ酒類ヲ醸造シテ之ヲ露国二輸出セザルヲ約シタリ。
 然ルニ利二敏キ支那人等ハ辺防ノ施設不充分ナルニ乗ジテ多量ノ酒類ヲ密二露領二搬出シテ巨利ヲ博スルニ及ビ当地方露国官憲亦自己ノ利益並二条約違反ノ対策トシテ露領内二阿片ノ栽培ヲ黙認スルニ至レリ……、(略)……現今二於テハ尼市、スパスカヤ附近ノ平地ハ勿論、ウスリー鉄道以東ノ山間避地二散在スル鮮人部落二於テモ之レガ栽培ヲ見ザル処ナク、其作付面積ノ如キ本年ハ咋年ノニ倍乃至三倍二拡セラレアルノ盛況ヲ呈シ、尼市在住有力鮮人ハ悉ク之ガ取引二関係シ今ヤ尼市ハ露領唯一ノ阿片集散地ト化シ、其品質良好ナルタメ上海市場二於テモニコリスク阿片ノ名声嘖々タルモノアリト云フ、"
 予想外のことである。しかもその栽培者がすべて朝鮮人であるということは、戦後の現在と違って彼らがすべて国籍は「日本人」であるということである。鴨緑江を越えて東満州、黒竜江を越えてシベリアへ、日本国籍朝鮮人が移住、ケシを栽培、阿片を製造、それを吸飲用として売買していたことを、黙視することは許されないだろう。
 収穫法は朝鮮、満州とも違って、十四日間毎日連続して行つた。採取中に降雨に見舞われると雨水が浸入硬化してしまって阿片汁が減ずることは内地も同然である。日本内地では三回どまり、朝鮮、中国では五、六回採取するところを、シベリアでは十四日間連続採取したというのは気候条件のためと想像される。
 第一回は落花直後のケシ坊主の根元の表皮に一筋だけ半円の傷をつける。そして滲み出る阿片汁の採取だが、二回めは根元ののこりの半円を、次はその傷の少し上部半円、のこり半円、そしてまた上部へと日ごとにのぼっていって、果実ケシ坊主のカッパ頭のところまで来るのに十四日を費やすのだ。
 その収穫量は、調査によると次のようになっている。
収穫順次日数 第三日 第四日 第五日 第六日 第七日 第八日 第十四日まで 計十四日
採収量目(匁) 40 80 306 306 306 300 300 約三十斤
 もちろん乾燥阿片の量目で、一日、二日が記入されていないのは、収穫がきわめて微量だからだ。
 乾燥するのも太陽熱を利用しているが、「油紙二豆油ヲ塗リテ四囲ヲ昂起セシメ之二耕地ヨリ採集セル樹脂(生阿片汁)ヲ深サ一寸位二流入二日間直射日光ニテ乾燥」し、乾燥中、太陽熱の高い時は表面が早く硬化するので、撹拌数回に及ぶとある。このほうが良品を採取できるとの由山だが、この方法はシベリアだけだ。
 が、収穫全体量は課税の関係と馬賊に備えて、正式の届出はごく少量となっている。それにしてもウスリー河以南の鉄道沿線、また山間部の朝鮮人のほとんどが阿片製造者で、生産品はすべてニコラエフスクに集まり、ウラジオストクから海路上海へ、他の大部分は東支鉄道で、ハルビン、長春、奉天、大連、北京へ行っている。
 尼市での阿片取引は八月から五か月間で、朝鮮人商人の取引は、一斤につき三円の手数料を取っており、うまく中国領に密輸し終わった時は、その阿片価格は倍となっている。したがって、利益は膨大である。一か年の総取引額は四百五十万円などと記してある。
 シベリア阿片は、露国の法令には禁止されていた。しかし革命以後「官憲ノ威令行ハレザルニ乗ジテ」(尼市特務機関報告)増加したものだし、官憲と朝鮮人との贈賄もそれに輪をかけたとある。
 尼市在住の朝鮮人の富豪は、ほとんどが阿片商人であったらしい。ところが中国人の誘惑を受けて賭博の道に入った者はスッカラカンになる悲劇も起こり借銭すれば利子は月二割、そこへ不正官憲の誅求と馬賊の襲撃だ。けっして阿片商人すべてが裕福とはいかない状態でもあったらしい。
 "近時阿片ノ栽培殆ンド公然行ハレ其産額増大スルニ従ヒ、此レヲ掠奪センガ為メ北満馬賊ノ侵入益々増加セシガ如シ、此等ノ馬賊ハ概ネ其ノ活動範囲ヲ定メ其ノ区域内に於ケル阿片耕作ノ面積二応ジ殆ンド租税的二阿片ノ徴発ヲ強請シ之二応ゼザル時ハ掠奪ヲ行フヲ常トセリ(尼市特務機関調査)。"
 しかもこれら阿片栽培者朝鮮人の心得として実に理を得た痛快な方法があつたことが書いてある。彼らは「外国二於テ行フ事業ナレバ仮令禁制品タリトモ利益ヲ得レバ国富増加ノ手段タリ、況ンヤ販路及需要者総テ支那ナルニ於テオヤ」とあることだ。
 この国富が日本の事を指していることはもちろんである。シベリア阿片栽培朝鮮人は、日本の富国を将来するのだから大いにやるべしとの観点に立っていたのだ。何が、どこでどう転倒するかわかったものでない実例である。近代史の複雑怪奇の一端をここに伺い知ることができる。
 朝鮮人、ロシア人、中国人、そこへ日本人が入り混ってこれら禁製品阿片を運搬売買していたのだ。ハルビン錦州方面へ流れるものがとくに多く、その莫大な量は掴み得なかった。
 満鉄沿線在住日本人商人の三分の一は、阿片で生活していると、特務機関が調査発表しているぐらいだから、シベリアと満州中国との阿片に関しての連繋も、公然としていたことはうなずける。ここにいたって、満州を語るとき、シベリアを度外視してはならないという事実が浮かびあがってくる。
 この満州とシベリアにはさまれた奥地に蒙古がある。この蒙古がまた曲者で、祇園坊レポは、その間の事情をつぎのように報じている。もちろん満州国建国前のものではあるが……。
 "露支国境地方産ノモノハ品質良好デ好評ヲ博シテイタガ、張宗昌将軍ノ転任ト露国白軍ノ全滅ニヨリテ栽培及運搬ノ保護者ヲ失ッタノデ現今産額減少シタラシク、マトマリタル数量ノ移入杜絶ヘタノデ、目下大部分ハ蒙古産品ヲ商ッテ居ル、熱河、哈爾浜、綏遠方面ノモノデ、外蒙古ハ支那人サヘモ入国不可能デ、運搬ハ土匪ヤ馬賊ノ仕事デアルト云ッテオル、山岳方面ハ山ガ険シク馬車等ノ不通デ馬賊等ハ物々交換ニヨリテ運搬スルノデアルト云フテオル、最モ近イ産地ハ熱河特別区域デアルガ其他ノ価格ハ十両匁(百匁)十二円位デ、之レハ混入物ノナイ良質ノモノデアル、混入物ハ麦粉ヲ混ゼテ容量ヲ増し、石粉ヲ混ゼテ重量ヲ増サシメタリスルノデアル……。"

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