日露関係ゆかりの地

南伊豆 下田



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 1853年8月21日、プチャーチンを乗せた軍艦パラーダ号は、日本との通商を求めて長崎に来航し、ロシア皇帝からの国書を長崎奉行に提出したが、幕府はこれに対する回答を引きのばしする策に出たため、日露交渉が始まったのは、長崎来航5ヵ月後だった。長崎での条約交渉は、互いの主張を述べ合ったのみで合意には至らず、2月5日には長崎を離れた。長崎を離れたプチャーチンは琉球の那覇港に入港、そこで、ペリーが江戸に向かったことを知った。
 1954年10月21日、プチャーチンを乗せた新鋭ロシア艦ディアナ号が箱館に入港、その後、11月9日には大阪沖に停泊し、12月3日に、下田港に入港した。12月20には、筒井・川路両日本全権との間で会見の儀式があり、22日には下田・玉泉寺で第一回の交渉が行われた。12月23日、安政の大地震(安政東海地震)が発生、ディアナ号は損傷、その後、修理のため、1月19日戸田湾に曳航を開始したが、翌日にディアナ号は駿河湾に沈没した。
 日露条約交渉は下田で行われ、1855年2月7日に締結された。


日露和親条約(別名:下田条約、日露通好条約など)


 日露和親条約は旧暦で、1854年12月21日(新暦2月7日)に、日本とロシアの間で最初に結ばれた条約。条約には正式なタイトルはないので、下田条約、日露和親条約、日露通好条約などと呼ばれる。

 日露和親条約では、千島列島における国境を、択捉島とウルップ島の間に引いた。樺太は、国境画定ができず、これまで通りとされた。
 その後、1857年10月に追加条約が、1858年8月には日露修好通商条約がそれぞれ調印された。日露修好通商条約では、領事裁判権に加えて最恵国条項が双務的となった。
 1875年5月7日、サンクト・ペテルブルクで樺太千島交換条約が締結され、樺太はロシアの領土、千島は日本の領土となった。
 1895年6月8日、日露通商航海条約が締結され、日露和親条約はすべて無効となった。さらに、日露通商航海条約は日露戦争によって廃止されたことが、ポーツマス条約で確認された。

 一旦、条約が結ばれても、その後に結ばれる条約で、前の条約が無効となることは、珍しいことではない。日露和親条約も締結後40年で無効となっており、現在、外交を含む一切の政治に援用することはできないので、北方領土問題の根拠とすることは全く不可能であり、そのような試みは、国際的にも理解されていない。しかし、日本政府は日本国民に政治宣伝を行うにあたって、北方領土返還の根拠に日露和親条約を使用しており、このため、条約締結の2月7日を北方領土の日としている。


長楽寺

 日露和親条約締結場所
 第四回・第五回の日露会談も、ここで行われた。

 

 2月7日の北方領土の日には、長楽寺をスタート・ゴール地点として玉泉寺折り返しコースで、マラソン大会が開かれる。(曜日の都合で、日にちがずれることもあります。)




玉泉寺

玉泉寺にて、1854年12月22日 第二回・第三回、日露会談が再開された。
(タウンゼント・ハリスが、最初のアメリカ総領事館を開設したことで有名)



玉泉寺には死亡したロシア人船員の墓がある



福泉寺

 1854年12月20日、儀礼交換が行われ、12月22日には第一回会談が開かれた。しかし、安政の大地震により会談は中止、再開後は場所を玉泉寺に移した。





了仙寺と泰平寺


了仙寺
ペリーとの間で日米下田条約が締結された
ロシア人休息所が置かれた
泰平寺
地震発生以前、応接係の川路聖謨の宿舎が置かれた





稲田寺

応接係の川路聖謨の宿舎が置かれた。また、地震後には、ここが仮奉行所にもなった。

   稲田寺には「つなみ塚」が建てられている



下田 開国博物館(豆州下田 郷土資料館)



ここにはモジャイスキーのカメラが展示されています。

入館料1000円は、展示内容に比べて高い感じがしました。



欠乏所跡
かつて、ここが下田に寄航した外国船に物資を供給(販売)する場所でした。今はステーキ屋になっています。
ペリー上陸の碑
ペリー上陸の碑があります。でも、本当に上陸した位置とは少し違うのだとか。プチャーチンもこのあたりから上陸したのでしょう。



宝福寺
1854年、日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、
下田奉行所が置かれていた
吉田松陰拘禁の跡 
現在は教育委員会・公民館になっている。
吉田松陰はペリー艦隊に乗って米国密出国を試みたが拒否され、ここで拘禁された。
一方、橘耕済はプチャーチン一行に願い、ロシアに密出国を果たした。


最終更新:2019.2


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