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最上徳内
シーボルト「日本」の最上徳内肖像画
最上徳内は択捉島を探検した最初の日本人。択捉島に上陸して、そこに暮らしていらロシア人イジュヨゾフ等に会って、択捉島やそれ以北の千島列島のようすを聞いた。また、択捉島アイヌにはロシア正教を信仰し、ロシア人風に解明している者がいることを確認している。
1790年、最上徳内は択捉島で出会ったロシア人から得た知識によって、蝦夷風俗人情之沙汰付図を作成した。千島が列島状に描かれているなど、これ以前の日本人の描いた千島地図に比べて、格段に精緻に描かれている。この地図では、千島の各島名にロシア語の数がカタカナで記されている。
(古地図と歴史‐北方領土 北方領土問題調査会編 同盟通信社 1971 より)
最上徳内記念館
山形県村山市中央一丁目2番12号に「最上徳内記念館」がある。
最上徳内記念館 | 記念館に立つ胸像 |
最上徳内は、蝦夷地に9回渡航している
第1回渡航 | 1785年 | 普請役青島俊蔵の従者として蝦夷地探検。クナシリ島北端に至る。 |
1786年 | 厚岸乙名イコトイの案内で、クナシリ・エトロフ・ウルップ島探検。 エトロフ島でロシア人イジュヨゾフ等に会って、択捉島やそれ以北の千島列島のようすを聞く。 |
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第2回渡航 | 1787年 | 松前に渡る。ロシアに渡航を計画するが、松前藩に拒否される。 |
第3回渡航 | 1789年 | 目付笠原五太夫の随員として松前に渡り、青木俊蔵とともに東蝦夷地見分。 |
第4回渡航 | 1791年 | 1790年、普請役となる。 1791年、ウルップ島見分。 |
第5回渡航 | 1792年 | 樺太巡検。 宗谷から樺太最南端のシラヌシに上陸。トンナイ(真岡、ホルムスク)、ナヨロ(ペンゼンスコエ)、クシュンナイ(イリンスコエ)と西海岸を検分。その後、ルータカ(アニヴァ)、クシュンコタン(コルサコフ)、トウフツ(ノヴィコヴォ)とアニワ湾沿岸を検分。山丹交易やアイヌ弾圧を調査。 |
第6回渡航 | 1798年 | クナシリ島からエトロフ島に渡る。近藤重蔵と合流し「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。 道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請するも、松平忠明と意見が衝突し、免職。 |
第7回渡航 | 1799年 | 東蝦夷地開発。この年、幕府は東蝦夷地を直轄地とする。 |
第8回渡航 | 1805年 | 幕府蝦夷地巡検随員となる。 |
1806年 | 遠山景晋の随員として宗谷まで巡検。 | |
第9回渡航 | 1807年 | 箱館奉行調役並に任ぜられ、江差に赴任。 ロシア人騒乱後、斜里に赴任。 |
1808年 | 任地が樺太となり、宗谷から樺太・シラヌシに渡る。ここから、東のクシュンコタンに上陸する。警護の会津藩兵がクシュンコタンに上陸した後、西岸のトンナイに上陸し、 クシュンナイに至る。 |
天明4年(1784)に最上徳内が芝愛宕山に奉納したもの
左図で、円、三角形は内接・外接しているものとする。
甲円、乙円、丙円の直径はそれぞれ49寸、28寸、17寸とする。
この時、外側の円の直径を求めよ。
蓮光寺入り口にある東京都教育委員会の説明文
江戸時代後期の北方探検家で、宝暦五年(1755)出羽国村山郡楯岡村(山形県村上市)に生まれた。天明元年(1781)江戸に出て官医山田宗俊の家僕となった。同三年(1783)本田利明の音羽塾に入って、天文・測量・地理・航海を学んだ。天明五年(1785)蝦夷地巡検使に従者として蝦夷沿岸を巡視、さらに千島方面の調査に向かい国後島に渡航。翌六年(1786)択捉島に上陸、さらに日本人として初めて単身得撫島に上陸した。寛政三年(1791)、同四年にも千島・樺太の探検を重ねた。寛政十年(1798)には近藤重蔵らと共に択捉島に「大日本恵登呂府、寛政十年戌午七月、重蔵徳内以下十五人記名」の標柱をたてる。
文政九年(1826)シーボルトを訪問。「日本北方に関する稀なる薀蓄深き学者」と評される。天保七年(1836)九月五日八十三歳で歿した。
最上徳内の墓 | 右側の大きな墓石 | 古い小さな墓石はプラスチックケースで覆われている |
蓮光寺本堂 | 蓮光寺入り口の案内の碑 | 蓮光寺 |
これらの写真は2004年10月、Zenit-km MC Zenitar-K2 50mmF2で撮影しました。絞りはF8〜F11を使用。
最終更新 2019.7
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