中国の尖閣主張が、1970年ごろ以降である理由

 日本側の説明の一つに、「中国は釣魚島付近の石油資源が明らかになった1970年ごろから領有権を主張し始めた」というものがある。領土問題は国家にとって重要な外交問題なので、このような単純な理解で済むものではないことは、明らかだろう。



 江戸時代、琉球は独立国であると同時に、清国に服属し、さらに、薩摩藩の支配を受けていた。明治になると、日本が琉球を内国化したことに清国が反発し、琉球の領有権を主張しており、琉球の帰属は日清間で対立したままだった。
 日本が、尖閣諸島を隠密裏に領有決定したのは、日清戦争で日本の勝利が確定的になった1895年1月だった。同年4月17日、下関条約により「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」が日本に割譲された。この結果、台湾・琉球・尖閣諸島全てが、日本の領土となった。

 1943年11月27日、太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚になると、米英中3国はカイロ宣言を公表し、台湾・膨湖島のように日本国が清国人より盗取した地域を返還することとされた。1945年9月2日、降伏文書に調印し、天皇・日本国政府がポツダム宣言の条項を誠実に実施することが約束された。ポツダム宣言にはカイロ宣言実施が定められているため、天皇・日本政府にはカイロ宣言の条項を実施する義務が課された。降伏文書では、天皇・日本政府にポツダム宣言実施義務が課されたのであり、連合国には実施義務は課されていない。
 日本が米軍を主体とする連合国の占領地になると、本土は間接統治されたが、奄美群島・沖縄・八重山・尖閣・小笠原は米軍の直接統治となり、台湾は中華民国に施政権が返還されたため、日本政府は、奄美群島以南の施政権を失った。
 1951年9月、サンフランシスコ条約に署名し、翌年4月28日に発効し、日本の占領統治は終了したが、奄美群島・沖縄・八重山・尖閣・小笠原では米国統治が続いた。これを「アメリカ信託統治」と言うこともある。連合国にカイロ宣言実施の義務は課されているわけではないので、中国は米国にカイロ宣言を根拠に、国際法上の権利として、アメリカに統治の解除を求めることは出来ない。

 1970年ごろ、沖縄が日本に返還される機運が高まると、中国は日本に対して尖閣諸島の返還を請求するようになった。


丸川哲史・明治大学政経学部教授(歴史学)の見解 

 サンフランシスコ講和条約は、当時の日本の多くの人々から、米国及びその友好国に限られた片面講和であると反対されていた。それは実に、中華民国も含む中国の代表者がそこに呼ばれておらず、また朝鮮半島からの代表者も呼ばれていない講和会議となった(ちなみに、ソ連は会議には来たものの調印を拒否する)。これは形式上の問題のみならず、当時は朝鮮戦争がまだ燃え盛っていた時期という問題性もある。周知の通り、日本は当時、経済的な後方支援の意味も含め実質的に朝鮮戦争に関与する主体であった。そして講和条約締結以降、琉球政府(米国側)は第六八号令(一九五二年二月二九日『琉球政府章典』)と第二七号(一九五三年一二月二五日「琉球列島の地理的境界」に関する布告)によって管理区域を拡大、くだんの尖閣諸島/釣魚列島が含まれる海域をその管轄下に組み込んだ。そしてここから二〇年ほどの時間が過ぎ、「沖縄返還協定」(一九七一年六月)が取り結ばれ、あの島々が米国から日本へと譲り渡されることになった。ちなみに、日中の国交回復はこの翌年一九七二年の九月のことである。
 ではこれまでの期間、人民共和国政府は「領土問題」について、誰に対してどのように話合いの場を設定し、「異議」を唱えれば良かったのであろうか。あの島々は既に米軍の実効支配下にあった。朝鮮戦争からそしてベトナム戦争、お互いに相手を仮想敵とする米中関係にあって、そのような話合い自体成立しようがない。では、日本はどうか。日本のものとして当該領域が移されるのかどうか、それも「沖縄返還」にかかわる協議の帰趨にかかっており、直前まで不用意な発言は出来ない状態であった。また一方、少なくとも六〇年代からの時間、大陸の人民共和国政府は、日本との国交回復に向け、水面下での外交努力を続ける最中であった。そこでもし「領土問題」を提起するのであれば、それは当該領域が日本の実効支配に移った後においてやっと可能になるはずである。
  (現代思想2012 vol.40-17 P96)



中国の反日教育について 豊下楢彦・関西学院大学法学部教授の見解
 

 日本のメディアは中国で何かが起こると、すぐに反日教育の結果であるとして過剰に批判しますが、そうした批判が正当であるかどうか、今一度考えるべきです。これは一般には余り知られていないことですが、七二年の日中国交回復から約一〇年間は、中国全土に歴史博物館は存在しなかったのです。これはもちろん、毛沢東-周恩来の日中関係重視の路線がもたらしたことです。それが転換したのが八〇年の初頭なのですが、実はその頃、日本で岸信介が音頭を取って満州国建設を記念する事業が企画されたのです。その事実は日本メディアでは非常に小さなべタ記事でしか扱われませんでしたが、中国では非常に大きく報道されました。
 そしてこの事件が、中国各地に歴史資料館、抗日記念館の建設が進まれる契機となったわけです。しかしこうした歴史的経緯を、私自身、あるシンポジウムにおいて、一橋大学に留学されていた中国人の大学院生から指摘されるまで全く知りませんでした。非常に驚愕して自分でも調べてみると、確かにその通りなのです。つまりここでも、日本から歴史認識をめぐる挑発が皮切りとなっているわけです。
 ところで、イスラエルにはホロコーストの記念館が数多く存在します。しかしこうした記念館の存在をもって、イスラエルは「反独」教育や扇動に熱を上げていると言う人がいるでしょうか。確かに中国国内における権力闘争のために、反日が煽られることも多々あります。しかしながら、こうした記念館がただ単に日本を批判するのではなく、過酷な植民地支配や大規模な地上戦が再び繰り返されないようにとの意識から作られていることも決して無視してはなりません。
  (現代思想2012 vol.40-17 P47-48)


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