最終更新 2018/1


 2012年7月17日、産経新聞一面に、「明の上奏文に『尖閣は琉球』と明記」と題する記事が記載された。

 1561年に琉球へ派遣された使節、郭汝霖が皇帝に提出した上奏文に「渉琉球境界地名赤嶼」とあるが、これは、赤嶼が琉球に含まれるとの主張が産経新聞でなされている。独断・強引な詭弁に感じる。

 「渉琉球境界地名赤嶼」は日本語で書くと、「琉球境界に渡る、地名は赤嶼」。「琉球境界地に渡る、名は赤嶼」とも読めるけれど、ちょっと口調が悪い。「琉球境に渡る、そこは界地であり、名は赤嶼」と読むと、さらに口調が悪いし、境のあとの界地が重複した説明になっていて、文章として感じが悪い。ただし、どれも同じ意味だ。
 「渉」は、漢和辞典でも、日中辞典でも、「水のあるところをわたる」の意味であって、「入る」の意味ではない。
 郭汝霖といえば1562年の「琉球使録」が有名で、こちらには「赤嶼者界琉球地方山也(赤嶼は琉球地方の界をなす山です)」とあり、同じような意味だ。

 「琉球境界に渡る、地名は赤嶼」と書かれているので、これを、略図に描くと、次のようになるだろう。境界が線ならば、境界線に渉ったとき、そこが赤嶼という地名なのだから、図A,B,Cのどれも可能性がある。琉球境界が広がりを持つ領域で、琉球と異なる地域と考えれば図D、Eの可能性もある。
 「渉琉球境界地名赤嶼」を倒置法的な解釈をして、「琉球境界に向かって渡っているぞ、今は赤嶼という地名だ」とすれば、Fになる。このような文章で倒置法はあまり使わないかもしれないが、Fの可能性がまったくないわけではない。
 結局、郭汝霖の当該文章だけからは、赤嶼が琉球の範囲に入るのか、入らないのか、跨っているのか、分からない。



事実はどうか

 事実を無視して、『界』の文字の解釈だけで理解しようとすると、産経新聞記事のようなおかしな解釈が生まれる。牽強付会な解釈は滑稽だ。

 事実を見れば、この場合の『界』の意味は明白だ。中国大陸から続く東シナ海の大陸棚は、深いところでも水深200mたらずであるのに対して、沖縄トラフは急激に深くなり、深いところでは2000mに達する。
 当時、福建を出港した琉球使船は、大陸棚の上を通って台湾北部に至り、大陸棚の淵に沿う形で魚釣島から大正島(赤嶼)に至る。ここまでは、大陸棚上の浅い水深のところなので、海は穏やかである。大正島を過ぎると、沖縄トラフに入り東進して久米島へ航海する。沖縄トラフは黒潮が通り海が荒れるので、黒水溝と呼ばれて恐れられていた。沖縄トラフに入るときには、女神に無事を祈る儀式をすることが常だった。
 このように、海底地形を考えると、郭汝霖の「琉球境界」とは沖縄トラフであることは明白だ。「大正島は沖縄トラフの西縁にある」ことを文学的に表現したのであって、領土の領有権の説明ではない。なんでも、領有権に結び付ける強引解釈は感心しない。



尖閣は琉球に含まれない

 琉球は独立国であると同時に中国の領土であり、さらに薩摩藩の支配を受けていた。薩摩藩の支配を受けていたため、日本の国絵図には琉球が入っていることがある。元禄国絵図では、奄美・沖縄・八重山と3枚に分かれ、どれも精密。しかし、これらの地図に、尖閣は入っておらず、日本の地理認識では、尖閣が琉球の範囲外だったことが分かる。

奄美 沖縄
この地図には久米島まで描かれている
八重山

 (国立公文書館デジタルアーカイブスに詳細画像が公開されています)


 秋田県大館市には「板子石」「板子石境」という地名がある。板子石境は板子石に含まれておらず、隣接してるわけでもない。地名なので「板子石境は板子石の境目でなくてはならない」などと、硬直した考えをとることはできない。このように、事実を見ないで、文言の解釈だけで赤嶼が琉球に含まれるか否かを議論しても仕方ないことだ。産経新聞の記事は、現実無視の我田引水解釈の典型に感じる。
 しかし、事実を無視した文言解釈だけを行ったとしても、産経新聞のような結論に到達するわけではないことを以下に示す。


「界」 の意味

琉球境界は琉球に含まれるか、含まれないのかを考える。

「界」の意味を辞書で調べると、次のように書かれている。
 @区切りをつけて両側にわけたさかいめ。
 A区切りの中の領域や社会。

 「界」のもともとの意味は@で、「太郎の土地と次郎の土地の境界」のように使用される。「甲と乙の界」は、甲のものか、乙のものか、これは文章からは分からない。
 「界」にはAの意味もある。「金融界」のように使う。金融界は金融業をひとまとめにしたときの内側を意味しているので、金融界に属するならば、金融業だろう。この用例では、「甲の界」は甲に含まれる。

 @の用例では、「甲と乙の界」のように、甲乙が現れるが、Aの用例では甲乙2つが現れることはない。(金融・証券界のような使い方もあるが。)
 郭汝霖の「琉球境界」は、琉球1つなので、Aの用例と短絡的に考える人もいるだろうが、そんなに独善・短絡的にならずに、もう少し考えてみる必要がある。

 Aの用例では、内部を含めて『界』という。もし、郭汝霖がAの意味で、界としているならば、沖縄本島も「琉球境界」になるが、普通は、このような使い方はしないだろう。

 @の意味で「界」というとき、すなわち内部を含めないときに、「甲の界」のような使い方をすることもある。

 <シャボン玉の界面>
 シャボン玉の内部は空気だが、これはシャボン玉界面には含まれない。つまり、シャボン玉界面は、内部を含まないので、Aの用例ではない。ただし、シャボン玉界面は石鹸膜なので、シャボン玉には含まれ、シャボン玉を形成する重要な要素になっている。
 この例は、シャボン玉の界面と言う替わりに、シャボン玉と外気の界面と言ってもよく、「甲と乙の界」と言う所を「甲の界」のように省略しているとも取れる。 

 <(発砲ウレタンの)気泡界面>
 発砲ウレタンとは、スポンジのような、気泡を含んだプラスチック。
 溶融状態の原液の中で化学反応が起こり、気泡が成長してゆき、最後に、硬化する。このときの「気泡界面」は気泡に含まれるだろうか、それとも気泡の周りの溶融樹脂だろうか。普通は、周りの部分に属するものとして考えるので、気泡界面は気泡に含まれない。
 これも、「気泡界面」という替わりに、「発砲ウレタンの気泡以外の部分と、気泡の界面」と言っても良いので、省略形と考えることができる。

 シャボン玉と、発砲ウレタンの気泡では、界面がどちらに含まれるのかという点において、逆になっている。これは、両者を比較すれば、容易に理解できる。すなわち、下図のように、シャボン玉では、主要部分は、外気ではなくてシャボン玉なので、界面はシャボン玉になる。一方、発砲ウレタンの中の気泡を話題にするときは、主要部分は気泡ではなくて、気泡の周りの部分なので、「気泡界面」は気泡ではない。



 郭汝霖の琉球認識は、シャボン玉の例のように、明と同格な独立国なのではなく、発砲ウレタンの気泡の例のような、明の世界に含まれる朝貢国なので、「琉球境界」は琉球ではなくて、明の領域に含まれるとする解釈が合理的だ。しかし、確かなことはいえない。


「太郎の土地と次郎の土地の境界」は、太郎の物か、次郎の物か

 公図で境界が線で書かれている場合は、面積がないので、誰のものとの概念は存在しない。境界が2本線で書かれていて、境界に面積があるときは、太郎・次郎どちらのものでもなく、国内法上は国家の所有になる。

 特に、太郎の土地と国有地の境界が、公図で二重線のときは、太郎の土地ではなくて国有地となる。太郎に比べ、国家のほうが遥かに偉いから、こうなるのは仕方ない。


埼玉県川口市民

 埼玉県川口市民は「川口の南の境界は荒川だ」と普通に言うが、これは「荒川が川口に属して、日本の領土ではない」との意味ではない。そんなこと、誰でもわかるよね。
 川口と日本の境界とは言わない。川口と東京の境界とも、あまり言わない。これは、川口が市であるのにたいして、東京は都であるので格が違うからだ。川口と北区の境界かもしれないけれど、東京都北区の範囲がどこまでなのか、あまり知識がないので、間違っていると困るから、私は、「川口と北区の境界」とも言わない。
 実際には、埼玉と東京の都県境は、荒川の中心付近であることが多いけれど、ゴルフ場のあたりは大部分が川口市で、水門あたりは大部分が東京都になっています。

 「渉琉球境界地名赤嶼」の文章で、赤嶼は明に含まれないとする解釈は、「川口の南の境界は荒川だ」の言葉で、荒川は日本の領土ではないと解釈しているように感じる。


再び産経新聞の記事

 以上、産経新聞の記事は、到底納得できるものでないことを書いた。

 でも、もし、産経新聞の記事が正しくて、この考えで、中国・台湾を説得できたとしても(ありえないが)、魚釣島や黄尾嶼など、尖閣諸島の大半は琉球でないことは、はっきりしている。
 産経新聞の記事は、赤尾嶼のみ日本の領土として、他は中国の領土としたいの??


  尖閣問題のページへ   北方領土問題のページへ   竹島問題のページへ