台湾はいつから中国の領土か?


 台湾がいつから中国の領土であるのかとの問題を考えてみる。
 中世における東アジアの領土概念と現代国際社会の領土概念は異なるので、台湾がいつから中国の領土であるのかとの問題は、領土とはどういうことを意味するものなのかという、領土の定義によって異なってくる。
 国際法の常識として、国際慣習が国際法の法源に挙げられるので、当時の領有を論じるためには、当時の地域国際社会における領土を考える必要がある。しかし、現在と当時の国際社会を比較するためには、現在の領土概念に従って比較しないと、わけがわからなくなるので、研究者の研究対象によって領土の定義は異なる。

 このような前提のもとに、「台湾はいつから中国の領土か」を考えてみる。

 日本政府外務省の公式ホームページには、竹島の領有に対して、以下の記述がある。

我が国は、江戸時代初めの17世紀初頭、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛が、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けて以降、両家は交替で毎年1回鬱陵島へ渡航し、あわびの採取やあしかの捕獲、そして竹などの樹木の伐採等に従事しました。この際、竹島は、鬱陵島に渡る船がかり及び魚採地として利用されており、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していました。 
   (http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html  2013.8.3閲覧)

 日本政府の公式見解に従うならば、「船がかり及び魚採地として利用され」ていることを持って、領有権を確立していたと考えるのだろう。





@明代以前、台湾は中国領だった

平凡社百科事典の「台湾」の説明 (○は字が出せなかったもの)
[歴史]漢籍に載る台湾最古の記録を、一部の学者は戦国時代(前403-前221)の地理書〈○貢〉(《書経》の一篇)にまでさかのぼり、同書の〈島夷〉を台湾と見たてる。だが3世紀半ばの《臨海水土志》に<夷州〉と見えるのを台湾史最古の現存記録とみるのが通説である。のちの史料には〈流求〉〈留仇〉〈流○〉等の呼称であらわれ、大陸・台湾間の往来は三国時代以降、断続的にあったとされる。行政機構の巡検司が台湾に設置されたのは元代になってからである。明代になると、〈小琉球〉の呼称で台湾は呼ばれる。これはこの時代,沖縄の中山国王が明朝に入貢し,〈琉球〉と称したのに対し、中国側はこれを区別して沖縄を〈大琉球〉,台湾を〈小琉球〉としたためである。
 明代嘉靖年間(1522-66)以降、大陸と台湾との往来は発展していくが、これより先,鄭和の南海遠征軍の台南寄港、倭寇と通じていた林道乾らの台湾開拓があったと史書にはある。同じころ東漸してきたポルトガル人は海上から台湾を眺望して、Ilha Formosa美麗島(うるわしのしま)とよんだ。ヨーロッパ文献で台湾を称してフォルモーサと記すゆえんである。1624年(天啓4)、オランダ東インド会社は中国、日本との通商基地として台南一帯を占領し、安平にゼーランジア城,台南にプロビンチア城を築いた。26年にはスペインがオランダに対抗して北部台湾の淡水にサン・ドミンゴ城,基隆にサン・サルバドル城を築いた。42年、オランダは台湾の独占をくわだてスペイン勢力を一掃し積極的に植民地経営に乗り出した。しかしオランダの台湾支配も長く続かなかった。

 百科事典の記述では、いつから台湾が中国領になったのか明確ではないが、「大陸・台湾間の往来は三国時代以降、断続的にあった」とされているので、三国時代以降には、領有権が確立されていたとも読める。
 さらに、「行政機構の巡検司が台湾に設置されたのは元代になってからである」とあることから、元代には、確実に領有権が確立されていたことになる。

 元代に巡検司が設置されたのは、台湾本島ではなくて、澎湖だった。
 日本でも、江戸時代の北海道は、渡島半島の南端部分が松前地として日本の支配下にあったが、北海道の他の広大な部分は蝦夷地として、商人がアイヌと交易する地だった。さらに、幕府は、アイヌに対する支配を禁じていた。このような状況でも、江戸時代の北海道はすでに日本の領土だったとの見解も多い。元代には台湾は中国の領土だったとの見解は、北海道認識と類似している。


中国の歴史教科書



 (地図をクリックすると拡大します)

 中国の教科書−明代の説明。小琉球の名で、明代の範囲に台湾が含まれている。


 『入門中国の歴史』 小島晋治 他/  (2001/11) 明石書店 P523

 唐代末期には、澎湖で漢人の活動があり、12世紀前半には、漢人はすでに澎湖に移住し、さらに台湾に渡って貿易し、短期的には、居住もしていた。このような状況があったので、元は澎湖に巡検司を設けた。
 明朝の初年、海賊から大陸沿岸を防備するため、住民の海上活動が禁止された。しかし、明代中期になると、漢人の澎湖での活動や移住が盛んになり、澎湖を介しての、大陸と台湾島との関係も密接になった。漢人による貿易・密貿易・海賊・漁業などが、台湾で行われた。 



(参考)オランダ人勢力(オランダ東インド会社)による台湾支配

 明代末期になると、中国人の台湾進出は活発になっていった。
 1622年、オランダ人勢力は澎湖島を占拠した。1624年、オランダ人勢力と明の衝突の結果、オランダ人勢力は澎湖から去り、台湾に移った。また、1626年、スペイン人勢力が台湾北部に進出した。スペイン人は1642年にはオランダ人勢力によって、台湾から追い出されたため、台湾のヨーロッパ勢はオランダ人勢力のみとなった。
 オランダ人勢力の支配は過酷であったため、先住民や中国人とオランダ人の間には時々衝突が起こった。1652年の反乱は、1万5千人の台湾の中国人がオランダ人を襲う事件が起こっている(郭懷一事件)。この事件では、先住民がオランダ人勢力に加勢したこともあって、中国人の反乱は5日で鎮圧され、台湾中国人の1割に当たる4千人が殺害された。
 1661年、鄭成功によりオランダ人は追放され、オランダ人勢力による台湾支配は終焉した。



A明朝滅亡期に初めて中国領になった

 李自成が北京を陥れ、崇禎帝が自殺して明朝が滅ぶと、明朝復興運動が相次いで起こった。
 このうち、広東省・肇慶では朱由榔(桂王:明朝最後の皇帝・崇禎帝の従弟、万暦帝の孫)が、1646年、皇帝に即位し、永暦帝と称し、鄭成功らの協力を得て、広東省から広西、貴州、雲南地区を勢力下においた。しかし清軍の攻勢を受け、まもなく広西省・桂林に退いた。1650年に桂林が陥落すると各地を転々としながらも、中国西南部で抗戦を続けたが、孫可望の降清などにより、1659 年、永暦帝はビルマに逃れた。しかし、そこで捕らえられ、1662年昆明で処刑され、明の皇統は断絶した。

 鄭成功は日本人の母を持ち、長崎・平戸の生まれ。永暦帝の臣下となり、自立して福建の海上勢力を率い抗清運動を続けた。1658年には南京を攻撃するなど海上から清軍を苦しめた。鄭成功の軍は廈門・金門を本拠地としていたが、清は大陸封鎖を行い、軍の維持を不可能にした。
 台湾は鄭氏が拠点としていたところで、土地も肥沃で大軍を養うことができる地であるため、鄭成功は、1661年、台湾のオランダ人を追放し、台湾・澎湖を根拠地とした。鄭成功が翌年に死亡すると、台湾統治は息子の鄭経に引き継がれたが、1683年に清朝に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了した。

 永暦帝は永暦通宝を発行している。永暦帝が各地を転々としたのに伴い、永暦通宝の鋳造地も多地にわたり、字体のバラエティーが多い。台湾に渡った鄭成功は、長崎に依頼して、永暦通宝を鋳造した。大陸の永暦通宝は楷書体が多いが、長崎永暦通宝は篆書体が多い。ただし、どちらにも楷書・篆書がある。
大陸で鋳造された永暦通宝(Yong Li Tong Bao)
字体のバラエティーが多い
台湾での使用を目的に、長崎で鋳造された永暦通宝
大陸の永暦通宝に比べ、不出来な鋳造が多い


 台湾島に、漢民族が直接統治する政権が誕生したのは、鄭成功が最初であるため、この時を持って台湾が中国の領土となったとする見解がある。
 しかし、鄭成功は、滅んだ明朝再興の夢を持っていたかもしれないが、当時の中国政権である清朝とは関係ないので、鄭成功の台湾支配が、中国による台湾支配と考えるのは、かなり無理がある。


B清朝が始めて台湾を領有した

 鄭氏による台湾統治は、1683年に清朝に降伏した。このときを持って、台湾が中国の領土となったとする見解がある。


 
C清朝末期

 明治4年(1871年)、暴風で遭難した琉球御用船が台湾南部に漂着、一部乗組員が台湾先住民によって殺害され、一部乗組員は中国人に救助される事件が起こった。この事件に対して、日本は清国に賠償などを求めるが、清国政府は台湾は化外の地であるとして賠償要求を拒否した。この事件は、3年後、日本の台湾出兵につながり、日本軍は台湾を占領した(牡丹社事件)。
 明治時代になっても、清国は台湾を十分に支配していなかったことが分かる。


D日本統治以降

 1895年4月、日清戦争の結果として、下関条約が締結され、台湾は日本に割譲された。台湾全土にわたって権力が行き届いたのは、日本統治下で有る。
 1945年10月25日、日本の敗戦に伴って、台湾の施政権が中華民国に引き渡された。しかし、中国本土では、国共内戦が再開され、1949年10月には、中華人民共和国が成立し、台湾とは異なった政権となった。


 結局、中国大陸中央政権が台湾全土を実効支配したことは一度もない。
 現在、台湾はどこの領土なのか。これについて、昭和39年衆議院予算委員会で、岡田議員の「中華民国政府が台湾を支配しておるというのは、法的に何と説明しますか、不法占拠以外に説明ができないじゃありませんか、不法占拠でしょう、法律上」との質問に対して、 池田国務大臣は「これは不法占拠と申しますか、私は未確定の問題で、一応観念上あそこを支配しておるぞと、こう考えております」と、答弁している。


 以上のような経緯があるので、台湾がいつから中国の領土であるのかの点については、「明代以前」「鄭成功による支配」「鄭政権降伏後の清朝支配」「日本統治の終結」等、いろいろ考えられる。台湾では、鄭政権の成立をもって、台湾が中国の領土になったとする見解が多いようだが、これは、現在の中華民国政権とどこか類似しているためだろう。中華人民共和国では、明代にはすでに中国領だったとしているようだ。
 
 日本政府公式見解では竹島領有の根拠として、「船がかり及び魚採地として利用され」ていることを持って、領有権を確立していたと考えているようなので、日本政府公式見解に従うならば、遅くとも三国時代には、台湾に対する中国の領有権が確立されていたと考えるべきだろう。
 もっとも、外務省では、北方領土・竹島・尖閣問題はそれぞれ担当課が異なるので、担当課によって領土の定義が異なる可能性がある。

最終更新 2018.4


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