冊封と閩人三十六姓

冊封と閩人(ビンジン)三十六姓

中国の領土になった琉球


 琉球が、まだ3つの王国に分かれていた時代の1372年、明国・洪武帝は琉球中部を治めていた察度に「琉球国中山王」の称号を与えた。この結果、形式的に、琉球国中山王は明国皇帝の臣下となり、彼の治める土地は明国の領土となった。察度の死後、1404年には、皇帝の使者がやってきて、息子の武寧を琉球国中山王に任命した。これを「冊封」と言う。形式的には臣下であり明の領土であるが、実際には自立・統治が認められていた。
 尚巴志が武寧を滅ぼし、3つの王国を統一し、琉球が単一の王国となった後も、さらに、明が清に交代した後も冊封は続いた。琉球王が新たに即位するときは中国から使者がやってきて新国王が琉球の意向に従って決められた。中国の支配は道徳による支配だったため、道徳の範囲内であるならば、琉球の定めた新国王にクレームがつくことはなかった。しかし、尚真のあと、第5子の尚清が即位したときは、長子を差し置いての即位に対して、儒教道徳に反することを理由にクレームがついたことがある。このときは、琉球から尚清が国王にふさわしいとの臣下の結状が提出されて即位が認められた。このように、琉球王の即位は、中国の定めた道徳に則っている必要があり、中国の意向を無視して新国王を定めることはできなかった。
 武寧を滅ぼした尚巴志の父・尚思紹は、中国に対して「わが父武寧死去す」との報告を送り、自己の中山王就任を求め、これが認められた。クーデタで尚徳王を倒し尚氏の家系を断絶させた金丸は、中国に対して、尚徳王の世子(あととり息子)であると詐称し、王位就任が認められた。



 琉球で行われた冊封のようす
  (首里城のジオラマ)





 首里城守礼門
 「礼を守る邦」と書かれ、儒教を敬っていることをアピールしている。





閩人三十六姓

 察度に「琉球国中山王」の称号が与えられたとき、琉球は明国より朝貢に使用する船舶を下賜された。このとき、洪武帝の命により、朝貢に要する航海・通訳などの、多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。彼らの多くは、福建省あたりの出身だったため、閩人(ビンジン)三十六姓と呼ばれた。36の姓があったわけではなく、縁起が良い数字なので、36と言われたと説明されることが多い[1]。もっとも、閩人は、この時以前にも、交易目的で琉球に居住していたので、冊封に伴って来琉した閩人と合わせて、閩人三十六姓が作られたものと考えられる。 琉球の大航海時代を支えたのは、明朝との朝貢関係が開始された初期段階において明朝から大量に下賜された海船であり、その運用に携わった多数の船乗り集団だった[2]
 朝貢業務に不可欠な漢文外交文書の作成も閩人三十六姓が担っており、現場で活躍する通訳(通事)なども閩人三十六姓であり、進貢船を動かす船長(火長)はほぼ例外なく閩人三十六姓であり、水夫(梢水)も当初は大半が閩人三十六姓であったと考えられる[3]



 那覇市松山公園の久米村発祥の地碑



 現在、那覇市中心部にモノレールが通っているが、かつて、このあたりは海の中で、那覇市久米・松山などは、浮島だった。閩人三十六姓は浮島に住み着き、久米村を開いた。このため、閩人三十六姓のことを「久米三十六姓」「くにんだんちゅ」とも言う。
 彼らは、中国語を話し、中国風の生活をしていたが、明が清に変わると、清の習俗を取り入れることをせずに、琉球化していった。しかし、彼等は自らを中国人として自負し、王府からもまた中国人とみなされた[4]。また、彼らの中には、琉球官生制度(1392~1868年)により、北京・南京の国子監(最高学府)に留学し、琉球の国政・文教の担い手となったものも多い。

 琉球の朝貢は、閩人三十六姓によって担われていたが、明末になり、朝貢貿易が退潮すると、久米村も衰退し、一時は五姓にまで減ったとも言われている。
 久米村衰退に伴い、中国への航海術も低下した。1594年、琉球国の進貢使・菊寿らは、航路を誤って浙江に漂着した。福建の役人・金学曾が朝廷へ報告したため、阮国を遣わして一行を護送して琉球に送り届けた。また、1600年、琉球の長史・蔡奎は、世子・尚寧の冊封を願い出たが、帰路を誤り、福建の役所に援助を願い出た。このため、阮国と毛国鼎(福建省瀧溪県の人)が、蔡奎等を琉球に送り届けた。
 こうした中、琉球王は、新たな閩人三十六姓を賜ることを明に願い出るも、受け入れられず、代わりに、阮国、毛国鼎、二姓の久米村入籍が許可された。その後、さらに、福建人の来琉があって、航海術も復活した。

 明治になって明治政府が琉球を日本の領土とすることを決定すると、琉球政府はこれに反発した。閩人三十六姓は日本への併合反対の中心勢力となり、一部の人たちは救助を求めて清に渡った。これを脱清人と言う。彼らは、清で琉球救済に奔走したが、当時すでに清の国力は衰えていて、琉球救済の実行力はなかった。しかし、清は日本との条約交渉で、琉球が日本領となることを拒絶した。
 日清戦争で日本が勝利して台湾が日本に割譲されると自動的に琉球も日本の領土となった。この時以降、閩人三十六姓も日本人に同化していった。ただし、これに異を唱える閩人三十六姓の人の中には、清に渡ったものも多い。すでに脱清人となっていた人たちも、多くは琉球に帰ることはなかった。
 琉球に残った閩人三十六姓の人たちは日本人に同化したが、現在でも彼らは同族意識が強く、一般社団法人・久米崇聖会を作って「久米至聖廟」 「天妃宮」 「天尊廟」等の管理や祭祀を運営し、人材育成、地域貢献などの活動をしている。




 那覇市久米にある久米至聖廟

 「閩三十六姓」は、琉球人だろうか、中国人だろうか。どちらでも良いような気もするが、大学入試センター試験日本史を受験する予定の受験生諸君は、「閩三十六姓は中国人」の側面を覚えておいた方が良いだろう。2013年大学入試センター試験第1問・問4では、地図に「九面里 江南人の家ここにあり」との記述の理解を見る問題が出題されている。


尖閣の利用

 中国と琉球の間の航海では、尖閣諸島の島々を目印に使っていた。このため、尖閣諸島を発見して利用していたのは、中国や琉球に住み、両国の間を航海していた閩人あるいは閩三十六姓だった。尖閣諸島は閩人によって利用されていたことと、尖閣は中国大陸と中国の領土とみなされていた琉球間にあるため、中国では各島に名前を付けて、地図にも書き込んでいた。


陳侃・使琉球録

 1534年、陳侃は皇帝の使節として琉球に赴き、この時のようすを『使琉球録』に著した。福建から琉球に渡航するとき、彼は、福建の船員が航路をよく知らないことに懸念していた。ところが、琉球から、蔡廷美を団長とする、航路の案内人・通訳と操船員を乗せた迎いの船が来たので、安心したことが『使琉球録』に書かれている。
是月 琉球国進貢船至 予等聞之喜 閩人不諳海道 方切憂之 喜其来 得詢其詳 翌日 又報琉球国船至 乃世子遺長史蔡廷美来?予等 則又喜其不必詢諸貢者 而有為之前駆者矣 長史進見 道世子遣問外 又道世子亦慮閩人不善操舟 遣看針通事一員 卒夷梢善駕舟者三十人代為之役 則又喜其不必藉諸前駆 而有同舟共済者矣大蹇朋来 憂用以釈 即此而観 世子其賢矣乎 敬使所以敬君也 敬君所以保国也 懐徳畏威 邦其永孚于休

口語訳:この月、琉球国の進貢船がやってきたので、私たちは、これを聞いて喜んだ。閩人は航路を暗記していないことを憂慮していたので、来航により、詳細を尋ねられ、喜んだのだ。翌日、また、琉球国船が来たとの知らせがあった。世子(王の世継)が、私たちを迎えに、長史(役職名)蔡廷美を派遣したのだ。水先案内人がいれば、進貢の者に尋ねる必要がないので、喜んだ。長史は進み出て、世子の挨拶を伝えた。また、世子は、閩人が操船を良くできないことに配慮して、看針通事(中国語のできる航海士)一人と、彼が率いる、操船が上手な夷梢30人を、代役させるために、派遣したとのことだ。同じ舟で助け合う者がいれば、水先案内人を借りる必要はないので、さらにまた嬉しかった。 (以下、ほめ言葉) 
 このことから「福建の人は琉球航路を知らなかったのだから、尖閣は琉球人が発見利用していた」と主張する意見がある。

 冊封船の航海は閩人が担い、進貢・朝貢船の航海は閩人三十六姓が担っていた。どちらが、航路を熟知していたのかは、時代や、個々のケースによって異なるので、一概には言えない。陳侃使録によれば、冊封船に乗る閩人は航路をよく知らず、琉球に住む閩人三十六姓が航路を熟知していたことが分かる。冊封使は、毎回冊封の時に、冊封船を建造し、船員を雇い入れていたので、場合によっては、優秀な船員を雇えないこともあった。陳侃の雇い入れた船員が、航路を知らなかったとしても、閩人すべてが、航路の知識がなかったと考えることは、論理の飛躍である。

 『明世宗実録』嘉靖二十一(1542)年五月庚子条 には、中国人同士の殺人事件が記されている。福建出身の陳貴という者が、海禁を破って、大船で乗り出し、琉球にやってきて、蔡廷美に招き入れられた。二人とも、福建出身ということで、協力し合うことがあったのだろう。ところが、たまたま同じ時に、琉球に来ていた潮陽(福建の南に当たる)の海船に遇い、トラブルを起こし、殺人にまで発展した。こういう事件が起こっているので、この時代、福建や潮陽の船員が、琉球に来る航路を知っていたことは、間違いないだろう。

 閩人三十六姓の名門、蔡氏は、1300年代に中国福建省から琉球に渡り、久米に移り住んだ蔡崇を祖とする。蔡氏大宗家譜によると、蔡廷美は蔡崇から数えて6代目に当たり、1525年には明に留学し、さらに計五度進貢通事等として渡唐した人物である。

 陳侃等謹題為出使海外事では、『看針通事(航路の案内人・通訳)』の名前を、『林盛』としている。
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B95/B952221/1/vol08/15.htm
 陳侃使録の杜氏通典には、以下の記述がある。  
若大夫金良 長史蔡瀚 蔡廷美 都通事鄭賦 梁梓 林盛等凡有姓者 皆出自欽賜三十六姓者之後裔焉

口語訳:若大夫・金良、長史・蔡瀚、蔡廷美、都通事・鄭賦、梁梓、林盛など、おおよそ名字のあるものは、すべて、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫である。
  このため、林盛も、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫、すなわち、閩人三十六姓であることは間違いない。都通事とは、通訳の階級で、若秀才→秀才→通事→副通事→都通事→中議大夫→正議大夫→紫金大夫と進む。


注と出典

 [1]那覇市松山公園内にある久米村発祥の地碑には「蔡・毛・王・林・金・鄭・梁・陳・程・阮・魏・孫・紅・曾・楊・周・李」の17姓が刻まれている。
 中国福建省福州市台江区にある柔遠駅(琉球館)の移居琉球的閩人姓氏によれば「蔡・鄭・金・林・陳・毛・王・梁・阮・孫・曾・魏・程・紅・周・李・高・呉・瀋・田・馬・銭・宗・葉・范・楊・郭・翁・于・韓・賈・兪・宋・陶・伍・江」の36姓が書かれている。
 [2]岡本弘道「古琉球期の琉球王国における「海船」をめぐる諸相」 東アジア文化交渉研究 2008-03 p.221-248
 [3]上里隆史「海の王国・琉球」 洋泉社 (2012/2)、出典箇所 p90
   注)著者は閩人三十六姓のことを、華人と書いている。
 [4]都築晶子「蔡温の「国」の思想」 人文學報 (2002), 86: p167-190

参考

『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社
 久米三十六姓 :14世紀後半ごろ進貢貿易を遂行するために、福建から数次にわたって派遣された通訳・船頭などの職能集団。ただちに琉球に土着したわけではなく、中琉間を往復するうちに定住する。三十六姓は漠然とした数字。16世紀後半から東南アジアの貿易構造の変化などによって久米村の人口は減少し、蔡・鄭・林・梁・金姓が残存するのみとなるが、近世琉球では、首里王府による久米村籍への移入政策などによって新入唐栄人が急増する。

閩人三十六姓については、以下の本に詳しい。
  池宮正治/著 『久米村 歴史と人物』 ひるぎ社(1993)



最終更新 2018/1



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