米軍占領統治時代

最終更新 2020.11


 1945年9月2日に日本が無条件降伏し戦争が終結したとき、米軍は、三布告を発令し、日本の通貨の使用を禁止して、米軍軍票を通貨とすることを計画した。しかし、これでは、日本経済は破綻するので、日本政府は、寸前のところで、軍票使用の米軍方針撤回に成功した。
 米軍が直接統治した琉球では、占領当初、日本円と米軍軍票が混在して使用されていた。1948年7月21日からは、日本円の使用が禁止され、米軍軍票が唯一の法定通貨として使用された。米軍軍票には、「B」の記号が書かれていたので、通常「B円」と言う。B円のほかに、「A」の記号が書かれた、通称「A円」も存在し、主に朝鮮などで使用された。B円は、日本本土でも米軍兵士が使った例があり、日本人は、これらの受け取りを拒否できなかったが、日本本土での使用量は少ない。

 B円、A円ともに、100円、20円、10円、5円、1円、50銭、10銭がある。また、琉球では1000円のB円も使用された。

 1958年9月16日〜20日、琉球で使用されていたB円は、すべてドルと交換され、以降、琉球ではドルが通貨となった。この時の交換比率は120B円=1ドルだった。

B円(B記号軍票)

100円 20円
10円 5円
1円 50銭 10銭

A円



琉球の郵便(B円時代)

 琉球の占領統治は、「沖縄」「宮古」「八重山」「奄美」の4地区ごとに行われた。郵便業務も、4地区それぞれ独立しており、使用された切手も4地区ごとに異なっていたが、1948年7月1日に郵便切手は統一され、1949年8月1日に郵便料金も統一された。
 1952年4月1日、4地区は統合し、琉球政府が発足し、郵便行政も統一された。

沖縄地区
 沖縄戦の戦場となり、荒廃した沖縄では、人々は米軍の収容所に住んでいた。安否を知るために郵便の利用が望まれる中、45年9月に郵便が再開された。この時期、貨幣経済は存在せず、あらゆるものが無料だったので、郵便も、1946年6月まで無料で配達されている。7月1日から郵便は有料になったが、切手類は存在せず、別納印で対応した。1947年11月1日、本土から輸入された切手に、通信部長・平田嗣一の認印が押印された切手が発行された。

宮古地区


 宮古島では、戦時中は、空襲や艦砲射撃を受けただけで地上戦は行われなかったが、2600人余りの将兵がマラリアや栄養失調で死亡した。8月26日、現地日本軍を武装解除するため、米軍が進駐した。
 1945年12月8日、進駐してきた米軍によって軍政が敷かれ、宮古支庁を管轄下に置いた。1947年3月21日には宮古民政府が作られた。
 郵便業務では、1945年12月14日に、宮古島局を宮古群島局と改称し、富山常仁が局長を務め、群島内の各局を監督下に置いた。民政府ができると、通信部が作られ、部長には富山常仁があたった。
 宮古地区では、1946年2月に、富山の認印を日本切手に押印した切手が発行された(左写真は一例)



八重山地区

 八重山諸島では、戦時中は、空襲や艦砲射撃を受けただけで地上戦は行われなかった。8月29日、現地日本軍を武装解除するため、石垣島に米軍が進駐した。
 1945年12月23日に進駐してきた米軍によって軍政が敷かれた。当初、通信部長は奥平朝親であったが、47年1月15日から宮良賢副に変わった。1947年3月21日には八重山民政府が作られ、通信部長は、引き続き、宮良が担当した。
 47年5月31日以降、日本切手の使用が禁止され、別納印が使用された。48年1月、宮良の認印を日本切手に押印した切手が発行された。(左写真は一例) 


奄美地区
 奄美諸島では、1945年9月21日に徳之島に進駐、26日に加計呂麻島、30日に奄美大島、10月3日に喜界島に進駐し、日本軍を武装解除した。しかし、このときは日本軍の武装解除が目的であり、行政機構は従来通りだったため、郵便事業も内地と同様だった。 
 1946年1月29日、連合軍最高司令部覚書(SCAPIN-677)で、北緯30度以南の奄美群島が日本から省かれた。名瀬には、沖縄基地司令官兼軍政府長官プライス海軍少将が来航し、奄美の日本からの分離を通告した(二・二宣言)。これにより、奄美は本土から切り離され、本土に本籍を有する官吏は本土送還となり、本土との通航が禁止され、沖縄占領軍の管理下に入ることになった。3月13日に進駐した米軍は、大島支庁内に軍政府を設置し、3月16日より、米海軍の軍政下に置かれた。他の地区では民政府と呼称した行政機構が作られたが、奄美では民政府は作られず、46年10月3日に、大島支庁を改称し、臨時北部南西諸島政庁が作られた。
 奄美の郵政は、米軍進駐まで、大島支庁の管轄外であったが、米軍進駐と共に、大島支庁の管理下になり、名瀬郵便局に管理部が設けられた。
 46年11月1日から、料金収納印および収納印を押した「大島はがき」が使われている。また、47年12月1日からは、日本切手に「検」字を彫った認印を押した切手が使われるようになり、日本切手の使用は禁止された。


1948年7月1日、統一切手が発行され、「平田」「富山」「宮良」「検」を押印した切手は、使用停止になった。


 4地区ごとの郵便料金の変遷を表に記す。

- 書状 葉書
年月日 沖縄 宮古 八重山 奄美 沖縄 宮古 八重山 奄美
終戦以前 10銭 10銭 10銭 10銭 5銭 5銭 5銭 5銭
45.9.4 無料 - - - 無料 - - -
46.4.1 - 30銭 - - - 15銭 - -
46.5.1 - - 20銭 - - - 10銭 -
46.10.1 - - 30銭 - - - 15銭 -
46.7.1 30銭 - - - 10銭 - - -
46.12.10 - - - 30銭 - - - 15銭
47.4.1 - 1円 1.2円 - - 50銭 50銭 -
48.7.1 50銭 2円 1.2円 50銭 15銭 1円 50銭 15銭
49.4.1 - - 2円 - - - 1円 -
49.7.22 - 1円 - - - 50銭 - -
49..8.1 1円 50銭
51.2.1 3円 1円
53.12.2 4円 2円


 本土宛ての郵便料金も、各地で異なっていた。宮古・八重山では、琉球各地宛てと本土宛て料金に違いはなかったが、沖縄・奄美では本土宛て料金の方が高い時もあった。1949年8月1日の料金統一のときに本土宛て料金も統一され、琉球各地宛て郵便料金と同一になった。


統一切手

 1948年7月1日、米軍施政権下の琉球共通の切手を発行した(下写真)。統一切手の発行に伴い、「平田」「富山」「富良」「検」印が押された切手は、前日の6月30日で発売停止となった。
 (この切手は1949年ごろから再版された。下の写真には初版と再販がある。)





琉球政府の誕生

 琉球の占領統治は、「沖縄」「宮古」「八重山」「奄美」の4地区ごとに行われた。米国は、民主主義を装うため、4地区ごとに、民選の知事を置いた。米国には知事の決定を無条件で破棄できる権限があったが、それでも、米国の意向に反して、知事が本土復帰を主張することもあり、米国の占領統治が円滑に進まない事態も生じた。このため、1951年4月1日、琉球臨時中央政府が作られ、4地区の知事権限は大幅に削減された。さらに、1952年4月1日、琉球政府が作られ、4地区ごとの行政は終了した。このとき、琉球政府議会(立法院)は民選であったが、行政主席は米国民政府により任命された。
 行政主席の選定方法は、その後、徐々に、立法院の意向を受け入れるようになったが、1968年までは、全て自民党系の人物が行政主席を務めた。1968年11月10日、行政主席は選挙で選ばれることになり、初めて、革新系の屋良朝苗主席が誕生した。

 1952年4月1日、琉球政府創立を記念して、3円切手が発行された。下の写真は、このとき発行された記念切手。



葉書と航空書簡

 1948年7月1日、統一切手発行と同時に、10銭葉書も発行された。しかし、この時、沖縄地区においても、葉書料金は15銭に値上げされており、10銭葉書が適正料金の地域はなく、切手加貼か不足料金別納で対応した。

デイゴをデザインした10銭葉書(1948.7.1発行)
デイゴをデザインした15銭葉書(1949.7.18発行)
榕樹をデザインした50銭葉書(1950.1.21発行)
写真は往復葉書の往信部

1951年2月1日、料金が1円に改定されると、これまでの葉書に料金別納印を押して使用した。 王冠をデザインした1円葉書
左:1952年10月発行 右:1952年2月8日発行 


航空書簡

航空書簡12円 航空書簡15円



占領統治の時代、沖縄は外国だった

 1952年、沖縄と日本の間で、年賀郵便の取り扱いが始まった。「外国年賀」と朱書(あるいは朱のスタンプ)された。実際には、単に「年賀」と書いたものや何も書かないものもある。1957年からは「特別年賀」と改称された。

1953年の年賀状。那覇差し出し、門司宛。 1955年の年賀状。佐敷差し出し、名古屋宛。



奄美の本土復帰

 戦後、奄美地区は沖縄とともに日本から省かれて、米軍が直接占領統治することとなった。
 しかし、奄美地区では、ロシア文学者・昇曙夢らを中心とした本土復帰運動が盛んで、また米軍の戦略的価値も大きくなかったので、米国は、1953年12月25日に奄美群島を日本に返還した。


 左の葉書は昭和28年元旦(1953.1.1)の年賀状。琉球葉書が使われている。



琉球の郵便(ドル時代)

 1958年9月16日〜20日、琉球で使用されていたB円は、すべてドルと交換され、以降、琉球では、ドルが通貨となったため、郵便切手も、急遽、9月16日にドル・セント表示のものが発行された。



急遽発行された切手のデザインは簡便なものだったが、その後発行された琉球切手は、琉球らしい美しいデザイン。

下の切手のうち、上段4枚は、1960.11.1発行された民族舞踊をデザインした普通切手。中段、下段は、ローマ字入りで、1961.9.1-1971.11.1に発行された。
 



下の切手は、琉球の花をデザインした普通切手で、1962.6.1-1971.9.30に発行された。



 通貨がドルになったとき、はがきは、セント表示を加刷して発行され、その後、正刷葉書に変えられた。

左:2円葉書を1.5セントに訂正、中央:正刷1.5セント、右:改定2セント
航空書簡
15円を13セントに訂正
外国郵便用の葉書



本土宛郵便

本土宛郵便料金は琉球内部宛郵便料金と同額であったが、航空の取り扱いをする場合は航空郵便料金を加貼した。

この葉書は、沖縄教職員会会長の喜屋武真栄が、美術評論家の久保貞次郎に差し出したもの。喜屋武は本土復帰後に国会議員を務めている。


琉球政府の選挙

立法院議員選挙
 1952年3月2日、琉球政府創立に先だって、任期2年の立法院(琉球政府議会)議員選挙が行われた。2年後には、第2回立法院議員選挙が行われた。

 下の写真、左は、1952年に行われた第一回立法院議員総選挙の欠員補充のための特別選挙の葉書。中央は、第2回立法院議員総選挙の葉書。右は、その後に行われた、欠員補充のための特別選挙の葉書。

1953年 
第一回立法院議員
特別選挙
1954年 第二回立法院議員
総選挙
1955年 第二回立法院議員
特別選挙


 人民党・瀬長亀次郎は、初回、2回共に当選したが、1954年のいわゆる「人民党事件」で、軍政府高等軍事裁判で懲役二年の判決を受けたため、議員を失職した。
 立法院議員を失職した瀬長亀次郎は、1956年12月に行われた那覇市長選挙に出馬し当選。市長就任後、米国は那覇市の琉球銀行口座凍結や、琉球民主党(本土の自民党に相当)に不信任決議を提出させる等の妨害行為を行ったが、いずれも市長追放に成功せず、1957年に米民政府高等弁務官布令143号(通称「瀬長布令」)を発令し、瀬長亀次郎の被選挙権を剥奪し、市長を解職した。
 1967年12月、「瀬長布令」が廃止されたことに伴い、瀬長亀次郎は、1968年11月10日の琉球最後の立法院議員選挙に立候補し当選を果たした。下の写真は、この時、瀬長亀次郎が差し出した選挙葉書。




行政主席選挙
 琉球政府行政主席は、米国民政府による任命から始まり、徐々に、立法院の意向を反映するようになっていった。1968年11月10日には、行政主席選挙がおこなわれ、革新系の屋良朝苗が当選した。下の写真は、この時、屋良朝苗が差し出した選挙葉書。




国政参加選挙
 琉球本土復帰前の1970年11月15日、国政参加選挙が実施された。これは、日本の衆・参両院の議員を選出する選挙だった。衆議院議員には、瀬長亀次郎・安里積千代・上原康助・西銘順治・国場幸昌の5人が当選し、参議院議員には喜屋武真栄・稲嶺一郎が当選した。

 下の写真は瀬長亀次郎の選挙葉書。この時当選した瀬長亀次郎は、その後も衆議院選挙に7期連続して当選し、高齢により政治家を引退するまで衆議院議員を20年務めた。







 下の写真は、この時、衆議院議員選に立候補した自民党・山川泰邦の選挙葉書。山川は立候補者7人中最下位で落選した。




参考文献:
沖縄切手総カタログ: 本土復帰45周年記念 (2017/10)日本郵趣協会


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