尖閣列島問題参考書   尖閣諸島問題理解のために、お薦めしたい本

尖閣諸島と沖縄: 時代に翻弄される島の歴史と自然 
  沖縄大学地域研究所/著  (2013/6) 芙蓉書房出版  (沖縄大学地域研究所叢書)




 沖縄大学教養講座の講義録。

 尖閣問題では、一方的に、日本固有の領土と主張する論調があるが、本書は、もっと学術的に、事実を解明しようとしている。尖閣問題の結論だけ欲しい人には向かないが、正しく理解したい人には、好適な教科書。

 内容は、明治以前の琉球と明・清の関係、明治になって日本が琉球を内国に編入したときの経緯、尖閣を領土編入した経緯、明治以降の尖閣漁業、アホウドリの話、と尖閣に関連する話題が豊富。このうち、戦前の尖閣漁業とアホウドリについて、触れられた本が少ないので、尖閣を理解する上で、大いに参考になる。
 尖閣は、琉球と中国の航路上にあったため、琉球・中国に認識され、冊封船や朝貢船により標識島として使われていた。このため、どの国の固有の領土というようなものではない。冊封にくらべ朝貢のほうが回数が多いので、本書では、中国よりもむしろ琉球の領土であったとの見解のようだが、宗主国と従属国であることを考えると、従属国だった琉球の領土とするのは無理があるように感じる。

 尖閣での漁業がいつから始まったのか、この件について、次のように書かれている。

 尖閣諸島というのはかなり昔、およそ五百年以上前から、沖縄や中国の人たちには琉球・福州間を結ぶ航路標識として知られていた。その頃に、漁業が行われていたか、僕は残念ながら知りませんが、明治期以降、琉球国が沖縄県になって廃藩置県が起こる。それ以降近代化の波が、沖縄県に押し寄せてきた頃におそらく、沖縄本島や八重山地方の石垣島や与那国島から漁業者が目指すようになっていった。そう考えています。(P92) 


 ところで、日本政府は、再三に渡って調査した上で、尖閣が無主地であることを慎重に確認したと説明している(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html)が、この件に関して、村田忠禧氏は、これは事実でないとしている。(日中領土問題の起源―公文書が語る不都合な真実 村田忠禧/著  (2013/06) 花伝社 P220)
 本書でも、次のように書かれており、村田忠禧氏の記述が事実のようだ。日本政府は、嘘をついて、尖閣を占拠しているのだろうか。

 沖縄県が出した一八九三年十一月二日付の尖閣諸島領土編入上申、県知事奈良原繁が出したものです、翌年の一八九四年四月十四日付で内務省の県治局長から沖縄県へ返事が返って来る。「沖縄県が尖閣諸島を領土編入したいというならば、きちんと調べてあるんでしょうね」と項目を指定して聞いてくる。「島嶼ノ港湾の形状」「開拓の見込みの有無」、きちんと開拓できるような島なんですね? と「旧記口碑等、古来我国に属している証拠」、これらを県治局の方で照会したいと言ってくる。
 それで翌五月に奈良原さんは回答しますが、この内容はお粗末と言いますか、「明治十八年以降実地調査をしていませんから、それ以外の調査報告については確報出来ません」、つまり十八年の調査以外は良くわからないとした。回答としては及第点より落第点に近いものなんですが、それ以降、明治政府の側としては領土編入に向けて動き出す。
 奈良原さんが回答して、七ヶ月後の一八九四年十二月、この時に秘別第一三三号、いわゆる尖閣諸島領土編入の閣議案が作成されます。その後内務大臣野村靖、外務大臣陸奥宗光、この二人の間で閣議案秘別一三三号についての協議がなされ、結論として閣議提出は問題無いという事になり、翌一八九五年一月十四日付をもって尖閣諸島の領土編入が閣議決定されます。明治十八年の西村捨三、明治二十三年の丸岡莞爾、明治二十六年の奈良原繁、歴代知事の上申は、ここに一応実を結んだ事となります。(P103)


明治初期、日清両国の琉球認識に対して、以下の記述がある。なるほどと思う。
 1878年9月〜10月、何如璋と寺島外務卿は琉球問題について会談した。・・・何如璋は寺島に対し、「琉球ハ元来清国ノ藩属、自治ノ国ナルニ、何故日本ハ其進貢を差止タルカ」との質問と抗議の書幹を提出し、進貢停止を暗に「不信不義、無情無理」の仕打ちだと非難した(『日本外交文書』十一巻)。
 要するに、寺島は琉球を「日本所属」とみなし、琉球の内国化を「内政問題」と位置付けたのに対して、何如璋は「清国所属」論の立場に立ちながらも、同時に「自治ノ国」とみなしていたことに注目すべきであろう。(P67)


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