『図説 琉球王国』高良倉吉・田名真之/編 河出書房新社(1993.2)
先史時代から明治までの琉球の歴史を、豊富な遺跡の写真などをもとに、易しく説明。琉球史の概要をざっくりと理解するため、あるいは、史跡を訪ねるガイドに便利。しかし、解説の文章が少ないので、詳しいことは、他書を読む必要がある。
琉球が三山時代だった1372年、琉球(中山)は明国の冊封を受けると、明国から朝貢に使う大型船を下賜された。また、このときに、琉球にやってきた中
国人が那覇市久米村に住み着いて、航海や朝貢の任に当たった。琉球では、これら中国からもらった船や人により、東南アジアとの貿易を行うようになり、中継
貿易により発展することになった。
尖閣問題に関連して、日本と中国のどちらが先に尖閣を認識していたのかが話題になることがある。尖閣は、琉球と中国の航路上の島で、冊封・朝貢船の航海
の標識島として、利用されていたことが知られている。冊封・朝貢船ともに、航海を担っていたのは中国福建省出身者だったため、この時期に、初めて、尖閣が
利用されていたとするならば、尖閣は、土着の琉球人ではなくて、中国福建省出身者によって、利用されていたことになる。このため、尖閣日本領論者の中に
は、冊封以前に琉球の船が、東南アジアを含む広い範囲を航海していたと主張したがる人もいるようだ。実際に、沖縄各地の、古い遺跡から中国陶磁器が出土し
ているので、冊封以前、琉球では、すでに東南アジア航海が、大々的に行われていたと、想像する人もいる。
しかし、本書には、以下のように書かれており、琉球自らが、大型船を造り海外へ派遣していたとする想像には否定的だ。
朝貢貿易の前史
中国の宋代になると大量の陶磁器が貿易品として海外諸国へ輸出されるようになった。その陶磁貿易の波動は、明と琉球との間で正式の朝貢貿易が始まる1372年以前から、琉球へも確実に及んでいた。
沖縄各地の遺跡から出土するおびただしい量の中国陶磁器がその証拠である。そのなかでも13世紀を中心とした中国陶磁器の種類には「斉一性」がみられ る。その現象に注目した考古学者によれば、こうした斉一現象は交易の主導権が売手側にあり、かつ流通機構が複雑でない場合に起こる傾向がつよいという(亀井明徳『日本貿易陶磁史の研究』)。
おそらく、十三世紀の琉球の按司層は、外部から来航する宋・元などの中国商人を相手に交易をおこなっていたのであろう。つまり、この段階では自ら大型船を造り海外へ派遣する出海型の貿易というよりも、むしろ受け身型の貿易が主流であったと考えられる。(P18)