尖閣列島問題参考書



「尖閣問題総論」齋藤道彦/著 創英社/三省堂書店 (2014/3)

読むことを、勧めない。




 本の内容は、尖閣中国領論や、それに近い主張を批判するものであるが、論者ごとに批判しているので、内容に重複が多い。また、その批判も、他の論者の引用が多いので、この本を読むよりも、他の本を読んだ方が、尖閣日本領を容易に理解できるだろう。

 著者の、「無主の地」認識は、まったくいただけない。サハリンの帰属に対して、以下の記述がある。

 前近代には「無主の地」はたくさん存在した。樺太(ロシア名ーサハリン)も、日ロ間で一八七五年に樺太千島交換条約が締結されるまではそうだった。井上 清・米慶余らは、前近代の王朝時代においては、近代国家とは異なり、世界(地球)はかならずしもかっちりと国境で区分されていたわけではないということを 理解していないのである。(P178)


 樺太千島交換条約が締結されるまでは、日魯和親条約があり、サハリンは、「日本国と魯西亜国との間に於て界を分たず 是まで仕来の通たるべし(境界を定 めないで、これまで通りとする)」となっていたので、「無主の地」ではなくて、日本とロシア両国の帰属と定められていたのであった。現在でも、国境が定め られず、係争地となっている場合や、緩衝地帯となっている地域がある。そういう地域を「無主の地」と言い張って、強奪してはいけない。こんな、強盗の論理 で、尖閣領有を正しく理解することは不可能だ。

 尖閣を最初に認識したのが、琉球か中国かとの問題に対しても、著者の歴史文書理解は皮相的だ。
 この問題に対して、著者は、尾崎重義の説明を引用して、「理にかなった説得力のある推定である」としている(P115、116)。

「陳侃は、往路の船中において、久米島が琉球に属すること、伊平島もまた琉球領であること、琉球を経て日本に至る航路があることなどを、一々琉球人の乗員 に問い質して知識を得ている。このことから容易に連想されることは、途中の『釣魚嶼』、『黄毛嶼』、『赤嶼』についても琉球人の乗員より知識を得ていたの ではないかということである。陳侃の航海以前に、これらの島の存在が中国入に良く知られており、明確に名前も定まっていたと見ることは、……当時の事情か らいってかなり無理があるように思われる。やはり、陳侃がその航海中にこれらの島を実見したとき、これらの島がどう呼ばれているかを同船の舟夫(おそらく 琉球人の舟夫)にたずね、それをそのまま漢字で表現したものが『釣魚嶼』、『黄毛嶼』、『赤嶼』という島名であろう。中・琉間の交通が始まってから、これ らの島の存在は、往来する双方の側の水夫、とりわけ往来の頻繁な琉球人舟夫によって知られていたが、彼等は文筆のあるものではないため、陳侃が渡航するま で記録されなかったのである」(『レファレンス』)。


 尾崎重義は陳侃使録を誤読しているのか、曲解したのか知らないが、陳侃使録には「琉球人の乗員に問い質して知識を得た」とは、書かれていない。誰に聞い たのか、書かれていないために、「琉球人の乗員」と曲解したのだろう。著者は「理にかなった」と書いているが、尾崎重義の解釈は常識はずれしている。陳侃 は中国人であって、琉球語はできないのだから、琉球語を話す舟夫ではなくて、長史・看針通事など、中国語を母語としている人に聞いたと考えるのが普通だろ う。

 また、別の個所では、次の、原田禺雄の『尖閣諸島琉球冊封使録を読む』を引用して、「明朝人より琉球人の方がこの海域に詳しかったのである」としている(P173)。

「(嘉靖一二年、一五三三、二月[もちろん旧暦〕)この月、琉球国の進貢船が福州に到着したが、私〔陳侃〕たちはそれをきき、うれしく思った。福建の人々 は、(那覇への)航路をそらんじていないので、ちょうど、そのことをしきりに気にやんでいたのであった。」「翌日、また琉球の船が到着したとの知らせが あった。それは〔琉球の〕世子が長史の蔡廷美を迎えによこしたのである。」「長史の謁見の折、世子の口上を申し述べ、また、こんなことを言った。『世子は また、福建の人が船の操縦が十分ではないことを心配いたしまして、看針通事一人に、琉球の船員で、航海によく馴れた者三〇人を引率させて派遣し、福建の船 員の代わりに航海の仕事をさせることにいたしました』」(原田二九〜三〇頁)。
「長史」とは、「明代は進貢担当の〔琉球国〕久米村の官職であった」(原田三五頁)。


   原田禺雄はこの道の専門家らしく、そつのない翻訳になっている。しかし、よく読んでみると、読者を故意に誤読させるような記述がある。「福建の船員の代 わりとして、琉球の船員に航海の仕事をさせる」ように感じるだろうが、原文を読むと、代わりに航海の仕事をさせるのは、看針通事一人と琉球の船員であっ て、琉球の船員だけではない。
 また、本書の著者は、『長史とは明代は進貢担当の〔琉球国〕久米村の官職であった』の記述から、土着の琉球人であると誤解したのかもしれない。しかし、 陳侃使録には、長史や看針通事を琉球人とは書いておらず、「中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫」としている。三十六姓と言うのは、進貢の仕事をするため に、中国から琉球に移り住んでいた中国人のことを言う。明治初年の日本には、ボアソナードのように、太政官や元老院の官職に就いた外国人がいたが、琉球も 同じように、優秀な官僚や技術者に、中国人を招聘していた。

   この他にも、おかしな記述が多々あるが、たくさん書いても意味がないので、ここまでにしておく。


尖閣関連書籍のページへ   尖閣問題のページへ   北方領土問題のページへ   竹島問題のページへ