本−琉球切手を旅する       2023/2/22


与那原恵/著『琉球切手を旅する 米軍施政下沖縄の二十七年』中央公論新社 (2022/12)


 日本の敗戦に伴い、沖縄は米軍の占領統治となった。1972年に、沖縄が日本に返還されるまで、沖縄では独自の『琉球切手』が使用された。1948年6月30日までは、日本切手に郵政局長印を押印した暫定切手が使われていたが、翌日、正刷切手が発行されると、暫定切手は使用禁止になり、沖縄返還まで、種々の独自切手が発行された。

 本書は琉球染料の歴史を切手を絡めて俯瞰するもの。切手の話は、正刷切手以降で、切手のデザイン面の話題が多い。

 暫定切手の話はあまりないが、この時代の歴史として、以下の記述がある。

 米軍は一九四五年の沖縄上陸後、住民を民間人「保護」の名目で建設した十二の民間人収容所(本島北部.中部.南部)に収容し、その人数は同年七月までで三十二万人に達しました。軍政府は各地区間の住民の往来を原則禁止(四七年一月末まで)し、基地建設などの軍作業に駆り出したのです。住民たちの金銭取引は禁じられ、「通貨なし経済」のもと、米軍の配給物資で生活しました。ところが、ようやく収容所に入ったものの、突然ハワイに送られた沖縄人がいます。
 米軍は沖縄戦の捕虜を「戦闘員」(日本軍兵士)と「非戦闘員」(現地召集された防衛隊員・学徒兵など)を区別していましたが、沖縄戦終結直前の一九四五年六月から、終結後の九月もしくは十月にかけて、捕虜(戦闘員・非戦闘員)のなかから選別した沖縄人三千数百人をハワイへ移送。「捕虜」たちは収容所に入れられ、軍関係の作業に使役されました。この時期に米軍がなぜ「捕虜」をハワイへ送ったのか、その理由や目的について研究が進められていますが、明確なことはわかっていません。捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約「ジュネーヴ条約」履行の観点からも、検証されるべき歴史です。「捕虜」たちは一九四六年末ごろまでに順次、沖縄に帰還したとされます。(P37,P38)
 沖縄返還のときに発行された、国政参加記念切手と海洋シリーズ第三集の記念切手の図案が対アメリカ外交上の問題になりそうな気配があったようだ。前者について、本書では以下のように記されている。
 「国政参加記念」切手が発行されました。図柄(伊差川新)は、画面の三分の二を占める日の丸、沖縄地図と国会議事堂が描かれています。・・・記念切手発行前の同年十月十九日、米国民政府民政官と屋良主席が会談。その席上、民政官が「日の丸入りの切手を今発行することは好ましくない」と発言したことを地元紙が報じ、問題になりました。民政官は、切手発行停止を要求したわけではなく、「時期尚早と考えられるかもしれない」という個人的関心からの発言だったと釈明。屋良主席は、「これまで切手発行について米国民政府と協議したことはない。事前協議の法的根拠もない」と述べています。これまで米側が切手の図柄や発行にロ出ししてきたことは、すでに紹介したとおりですが、この時期には沖縄側がつっぱねることができたのです。(P219,P220)
 海洋シリーズ第三集の記念切手は尖閣問題との関係であるが、本書には記載がない。

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