原子爆弾 開発

 戦時中、日本でも、理化学研究所を中心に原子爆弾の開発研究が進められていた。


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ニ号研究

 1941年4月、陸軍航空技術研究所は理化学研究所に原爆開発の可能性に関する研究を委嘱、仁科芳雄を中心に研究が開始された。1943年3月、仁科は「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にあり」と回答している。同年9月、仁科等の研究は陸軍直轄となり、仁科にちなんで「ニ号研究」との暗号名がつけられた。
 この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まったが、1945年5月の東京大空襲により、熱拡散塔が消失し、開発研究は頓挫した。
 
 2005年、理化学研究所は、研究所の歴史を著した「理研精神八十八年」を出版した。この中で、二号研究に触れられている箇所は、極めて僅か。触れたくない歴史なのだろうか。

理研精神八十八年より

 第2次世界大戦中に米国は、高濃縮ウランを精製して原爆にしたが、日本でも陸軍、海軍から委嘱を受けて理研と大学でウラン濃縮の研究が行われている。仁科が熱拡散法でトライした「ニ号研究」は陸軍の委嘱によるもので、ここで使用した熱拡散装置は終戦の4ヵ月前の空襲で破壊されてしまう。また、海軍の委嘱を受けた京大の研究もまったく基礎的な段階で、微量の濃縮ウランすらできない状況であった。(P228)


 埼玉県和光市の理化学研究所には展示棟があり、ここでは、研究所のいろいろな研究や歴史展示がなされている。しかし、二号研究の話は理研の歴史パネルの一行のみ。仁科芳雄のパネルもあるが、彼の業績に二号研究は書かれていない。

研究本館 昔のサイクロトロン 左側のイチョウは葉が落ちているのに、
右側は緑が残る。
展示館 展示館の内部 二号研究の話
理研の歴史パネルの一行のみ
仁科芳雄の説明パネル
二号研究の話はない
放射能管理区域のマーク
時々、放射線レベルが上がります
ラジオアイソトープ実験棟

  サイクロトロンとは荷電粒子を加速して高エネルギー状態とし、それによって、いろいろな核物理関連などの実験を行う装置のこと。今は、重イオンビームによる癌治療も行われている。
 理化学研究所では、1937年に第一号サイクロトロンが建造され、1943年には第二号サイクロトロンが完成した。原爆開発では、山崎文男が中心となった検出班が、サイクロトロンを使って、ウランの濃縮が成功したかどうかの判定をした。最初の検出は 1944年11月におこなわれたが、濃縮は失敗と判定され、翌年5月の測定でも、同様の結果となったため、陸軍は二号研究の中止を決定した。
 このように、当時、サイクロトロンは、原爆開発に必要な機器であったため、戦後GHQは理化学研究所のサイクロトロンを破壊した。
 主権回復後の1953年には第三号サイクロトロンが完成し、さらに1966年には第四号が完成している。写真は、理化学研究所屋外に展示されている、今は使われなくなった、第四号サイクロトロン。原爆開発に使われたことはないはず。





 理研展示室には仁科関連の説明はあるが、原子爆弾開発の話はなかった。
 清酒「仁科誉」のパンフレットがおいてある。




福島県 石川町

 1944年7月、第八陸軍技術研究所(所長・田村宣武少将)は、理化学研究所・飯盛里安に川辺鉱床の調査を委嘱した。8月、飯盛は第八陸軍技術研究所嘱託となる。
 1945年4月、軍は、丸野内鉄之助が福島県石川町高田に建設したジルコン選鉱場を接収し、理研希元素工業扶桑第806工場として、理化学研究所・飯盛里安が率いるチームが、ウラン選鉱を行った。また、このときから終戦まで、旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させたが、必要量の確保も出来ずに、敗戦となった。

歴史民俗資料館の展示パネルから

原子爆弾と石川町の関わり
 石川町は太平洋戦争(1941−1945)末期に、ウラン鉱の供給場として原子爆弾の開発製造計画に組み込まれ、町をあげて協力したことは昭和の秘史として知る人ぞ知るところです。
 1932(昭和7)年に中性子の発見、1938(昭和13)年にウランの核分裂が発見されてから、各国によって巨大エネルギーを兵器に転用する研究が進められました。日本においても1942(昭和17)年に陸軍航空技術研究所によって計画がスタートしました(同じ頃、米国でもマンハッタン計画(原爆製造研究)がスタートしています)。
 開発研究は理化学研究所の仁科研究室を中心に進められました。研究は分業化され、ウラン鉱床の採掘選鉱、ウランの抽出は飯盛研究室が担当しました。1944(昭和19)年7月、サイパン島が玉砕すると、戦況奪回のため「決戦兵器」の実現の期待がたかまっていきます。
 1945(昭和20)年、理研施設が空襲で大半破壊されると、飯盛研究室は石川町に疎開してきました。ウラン鉱石を含めた希元素鉱物の産地であるとの飯盛博士の意向と、たまたま国策施設「日本ジルコン研究所石川工場」が高田(現在地)に完成しており、軍の命令で急遽「理研希元素工業扶桑第806工場」に転用されたからです。以後、石川では官民一体となり、石川中学生(現学法石川高校)をも動員して、原料のウラン鉱の探査・採掘が終戦日まで続きました。

 原爆製造のプロセスは大きく分けて下記のようになります。
  ウラン鉱採掘→選鉱(精鉱)→イエローケーキ→六フッ化ウラン→ウラン235分離→濃縮ウラン→原子爆弾の製造  以下略

 この中で実際、飯盛研究室が担当したのはウラン鉱石の確保、選鉱、イエローケーキ(六フッ化ウラン)の抽出までででしたが、機材・原料不足のため、本格的な生産ラインに乗らないまま4ヵ月後に敗戦を迎えることになります。
 一方、別の班が担当した核分裂を起こすウラン235の抽出も失敗に終わり、実験の初段階で軍部の夢はここに費えました。


理研希元素工業扶桑第806工場
ここで、ウラン精錬が行われた
現在、歴史民俗資料館になっている
今も残る工場の石垣
(歴史民俗資料館の裏側)
歴史民俗資料館、
飯盛里安の展示コーナー
石川石
石川町・産
サマルスキー石
石川町中野・産
燐灰ウラン石・閃ウラン鉱
石川町塩沢字竹ノ内・産

左写真の石川石では、放射線カウンターを近づけると、数十μSv/hの線量を示すとのこと。



石川町・歴史民俗資料館で開かれた「二号研究」関連展示のパンフレット


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