昭和三十四年五月
満洲・北鮮・樺太・千島における
日本人の日ソ開戦以後の概況
厚生省引揚援護局 未帰還調査部
第一編 日ソ開戦直前から終戦までの状況
第三章 日ソ開戦から終戦までの状況
(P17,18,19)
第三節 南樺太、千島における日本軍の戦闘状況と邦人の行動
一、南樺太方面
1 軍隊の配置
この方面には第八十八師団及び第五方面軍の直轄部隊が配置され、第八十八師団の歩兵第百二十五連隊は、南樺太北部の警備として内路、上敷香、気屯に駐屯し、その他の師団主力(歩兵第二十五連隊、歩兵第三百六連隊を基幹とするもの)は豊原、真岡以南の地区にあって守備に任じていた。
2 国境正面の戦闘
八月九日ソ軍参戦の報を受けて、歩兵第百二十五連隊は逐次古屯西北方の八方山の既設陣地に入り、十一日朝以来わが国境監視部隊を突破南下してきた一個師団ないし二個師団のソ軍主力と戦闘を交えた。特に十四日から十七日に至る間、八方山の主陣地を中心として激しい攻防戦が反復されたが、連隊はよく主陣地を確保し、この間幌内川石右岸を古屯附近に進出したソ軍主力との間にも激戦が展開された。
十七日朝戦闘行動停止の師団命令に接し、当面のソ軍師団長との間に局地停戦の交渉に移った。
3 恵須取正面の戦闘
歩兵第百二十五連隊の一部は西海岸の恵須取附近を警備していたが、十三日ソ軍の上陸部隊を迎えてこれを撃退し、その後連日のソ軍艦砲射撃及び爆撃にも屈せず同地を確保し続けた。
しかし、十六日恵須取北方海岸に一個旅団内外のソ軍が上陸し、かつ、このソ軍との現地停戦の交渉が決裂したので、十八日夜部隊をまとめて内路に転進し、二十四日同地において武装解除の師団命令を受領した。
4 真岡正面の戦闘
真岡附近には歩兵第二十五連隊の第一大隊が守備していたが、すでに停戦の命令を受領した後の八月二十日朝にいたり、ソ軍は艦砲射撃の後上陸を開始して来た。わが軍は軍使を派遣して停戦を交渉したが、ソ軍はわが軍使を射殺し、避難する住民に対しても攻撃を加えたので、遂に日ソ両軍の間に戦闘が開始されるに至った。
この状況を見て歩兵第二十五連隊の第三大隊は留多加から救援に向つたが、真岡附近を突破した約一個旅団のソ軍と二十二日真岡東方の熊笹峠附近で遭遇し、激戦の後翌二十三日に至って漸く停戦した。
5 特設警備隊
日ソ開戦と共に各部隊はかねて準備したところにより、在郷軍人及び中等学校、青年学校生徒の防衛召集を行って特設警備隊を編成した。これらの部隊は主として沿岸警備、対空監視、陣地構築及び軍需品の輸送作業等に従事したが、上敷香、恵須取、真岡附近の部隊は軍の戦闘に参加し一部の戦死者をも出している。
6 停戦、武装解除の完了
停戦命令を受領した第八十八師団長は直ちに現地における停戦交渉に努力したが、第一線部隊は前述のごとく幾多の曲折を経て漸く停戦が実行され、南樺太全部隊の武装解除が終ったのは八月二十八日であった。
日ソ戦闘開始から武装解除までの日本軍の死亡者は千島を含み約二千五百名と推定される。
7 在住邦人の行動
日ソ開戦と共に敷香、内路、落合、豊原、塔路、恵須取等の各都市はソ軍の爆撃を受け、また名好、恵須取、真岡においては、ソ軍の上陸攻撃を受けたため、在住邦人にも多くの犠牲者を出した。その数は真岡一、○○○名、恵須取約一九〇名、塔路一七〇-一八○名、豊原約一〇〇名、敷香約七〇名、落合約六〇名といわれ、南樺太における邦人犠牲者の総数は約二千名と推定された。
一方、樺太庁長官は軍の要請と樺太の事態に鑑み、婦女子、老幼者等を北海道に疎開させることを決意し、連絡船はもとより、機帆船、海軍の艇船をも利用して、大泊、本斗から北海道の稚内、小樽に向け緊急疎開を開始したが、八月二十三日遂にソ軍の禁止するところとなってやむをえずこれを停止した。この緊急疎開によって離島できたものは約七万六千名であったが、この間小笠原丸、第二新興丸及び泰東丸は二十二日北海道増毛町沖及び苫前沖において潜水艦の攻撃により海没し、犠牲者約千七百名を生ずるに至った。
二、千島方面
1 軍隊の状況
この方面には、第九十一師団及び海軍部隊の一部が千島列島北端の占守島及び幌鑓島を、第八十九師団が南千島の択捉島、国後島附近を守備し、これらの中間には独立混成第四十一連隊が松輪島を、また、独立混成第百二十九旅団が得撫島をそれぞれ守備していた。
千島に対するソ軍の攻撃は八月十四日占守島に対する砲撃に始ったが、第九十一師団長は翌十五日には終戦の詔書を知り十七日には「即時戦闘行動中止、但しやむをえざる自衛行動を妨げず」との方面軍命令に接した。ソ軍は十八日未明、占守島に上陸攻撃を開始したので、わが守備隊との間に激烈な戦闘が展開された。しかし、同日夕「即時戦闘行動中止」の方面軍命令を受け、二十三日ソ連軍艦上において停戦協定を行い、二十五日には武装解除を終った。
その他の千島諸島にあった各部隊はソ軍の攻撃を受けることなく終戦を迎え、松輪島の独立混成第四十一連隊は八月二十六日、得撫島の独立混成第百二十九旅団は八月三十一日、択捉、国後島の第八十九師団は八月二十九日それぞれソ軍により武装を解除されるに至った。
2 在留邦人の状況
千島には約一万名前後の邦人が主として漁業に従事していたが、ソ連参戦時にはすでにその大部分が北海道に帰還しており、残留していた邦人約千名も終戦後北海道に脱出した。ソ連占領後も引続いて残留し、または抑留された邦人もあるか、その数は少数であった。(抑留、残留の状況は第二編及び第五編において述べる。)
(P20)
第二編 日本軍の武装解除と日本人のソ領移送
第一章 概説
満洲、北鮮、樺太、千島において終戦を迎えた日本軍は、概ね八月末までには武装を解除され、ソ軍の命令によって逐次各地に集結収容され、全くソ軍の管理下におかれることとなった。この間離隊する兵員も多く、特に満洲、北鮮においては現地に家庭を持つ現地応召者で家族を求めて離隊する者が続出した。
一般の邦人に対しては、ソ軍は特に日本人といら理由のもとに逮捕することはなかったが、武装解除後集結収容した軍人の人員が、部隊の編成人員等に照して不足する場合には、市民のうちに逃れた軍人、または兵役年令の邦人男子を拉致して人員の充足を図った。当時「軍人狩り」「男狩り」と呼ばれたのはこれである。このほか日系満洲国官吏、同協和会役員、朝鮮総督府及び樺太庁等の官吏、警察官、重要な職域の幹部等もソ軍によって逐次逮捕され、これらはソ連兵及び現地暴民の掠奪、暴行と相伴って終戦後の邦人に極度の不安を与えたのであった。
ソ軍によって収容された軍人及び逮捕された邦人は概ね千名を単位とする大隊(作業大隊)に編成され、八月下旬から翌二十一年六月まで(大部分は二十年末まで)の間に逐次ソ領内に送られた。但し将官及び一部の軍、邦人は作業大隊とは別に移送されたものもあった。作業大隊の編成においては、将校の大部分は下士官、兵と分離して将校大隊に編成され、また一般の作業大隊も数個から十数個の部隊の兵員が混合し、終戦前における部隊の団結、組織は全く破壊された状態となった。
かくして満洲、北鮮、樺太、千島からソ領内に送られた作業大隊は総計約五百六十九個、人員総数約五十七万五千名と推定され、シベリヤをはじめとして外蒙古、中央アジア、ヨーロッパロシヤの各地において長い抑留生活を受ける運命となったのである。
第五編 ソ連地域における抑留日本人の状況
(P41)
第三章 ソ連本土における抑留状況
第一節 収容所の状況
一、収容所の管理組織
入ソ後日本人が抑留された収容所の大部は、ソ連内務省の管轄に属する収容所(一般収容所)であって、一部には赤軍の管轄のもとに、軍関係の労働に従事した労働大(中)隊と呼ばれるものもあった。また特別な戦犯容疑者は入ソとともにハバロフスク等の特種な収容所、若しくはモスクワ等の監獄に収容されたものもあった。 一般の収容所は各地区ごとに、これを管理するソ連機関の地区本部のもとに、通常二、三十個の収容所(分所)と数個の病院とがあった。収容所(分所)は小は数百名から大は四、五千名の日本人を収容し、病院にはその地区の患者を収容していた。但し軽症患者は収容所内において医療を受けていた。
二、収容所及び収容人員等の変動
収容所の配置及びその収容人員等は、ソ連側の作業上の要求によって決定された。従って収容所相互の間における人員の移動や、収容所の位置の移転等はしばしば行われ、タイセット地区のごときは、作業(鉄道及び道路建設)の進捗に従い、延長三百数十粁を及ぶ無人の林野に、逐次収容所を移された状況であった。
昭和二十二、三年頃以後においては、日本人の内地送還に伴い漸次収容所の閉鎖、統合等が行われ、昭和二十五年頃以後においては、日本人受刑者のみを収容する収容所の数は著しく少数となったのである。
(P45,46,47)
第四章 南樺太、千島における抑留及び残留状況
第一節 終戦直後から昭和二十四年までの状況
一、全般の状況
ソ連は昭和二十年十月豊原に民生局を設け各市町村に民警及び憲兵を配置して占領政策の遂行にあたった。この占領政策の強行特に作業大隊編成のための多数人員の収容、戦犯その他の犯罪容疑者の逮捕と、朝鮮人ソ連兵の日本人に対する掠奪暴行とは日本人の生活に極度の不安を与えた。これがためソ連側の禁令を犯して北海道に密航を企てる者、食糧の不足、医療衛生施設の不備等により死亡する者が続出したのである。これらの混乱状態は昭和二十一年末頃まで続いた。
二、南樺太、千島に配置された作業大隊
ソ連が終戦後多数の日本人を捕えてソ領に移送したことは、第二編に述べたとおりであり、南樺太、千島からは約六万名(七十一個の作業大隊)がソ連本土(北樺太を含む)に送られたのであるが、南樺太及び千島における労働のため十三個の作業大隊、約一万三千名の人員が各地において労役に従事した。
南樺太、千島に配置された作業大隊の状況は次のとおりで、これらの作業大隊に属していた人員は昭和二十三年末までの送還により逐次帰還した。
地点 | 作業大隊 | 作業内容 | ||
編成地 | 人員 | |||
北千島 (占守) |
柏原 | 3500 | 荷揚、施設の撤収 | |
南千島 (択捉・ウルップ) |
択捉・色丹 | 2561 | 荷揚、施設の撤収 | |
南樺太 | 上敷香附近 | 敷香 | 4000 | 建築、伐採 |
恵須取・真岡附近 | 占守 | 942 | 荷揚、農耕 | |
豊原・大泊附近 | 豊原 (柏原) |
(4000) 1000 |
二、戦犯等の容疑者逮捕と受刑
南樺太における戦犯等の容疑者の逮捕は終戦直後から開始された。戦争犯罪関係については満洲等におけるものと同様で、軍人及び樺太庁、裁判所、警察、鉄道、民間特種会社等の関係の上級者は反ソ容疑で逐次逮捕されたが、ソ連の占領政策に副わない者についても大幅な逮捕が実施された。すなわち、北海道への脱出を発見された者、内地から樺太居住の家族のもとに密入国した者をはじめとし、武器隠匿、食糧窃取、作業怠慢、業務上の事故過失等その無実なものも含み、いやしくも反ソ的または占領政策阻害と認められた者はすべて逮捕された状況であった。
これらの容疑者中特に重要な戦犯関係者はハバロフスク等に送られ、その他は樺太において裁判を実施された。裁判の結果受刑した者は、昭和二十二年まではその大部が、また昭和二十三年以後はソ連刑法第五十八条関係者等のみがソ連本土(主としてクラスノヤルスク周辺、マリンスク、カラガンダ、マガダン等)に移送された模様である。
南樺太、千島からソ連本土に移送された受刑者の数は約四千名内外と推定された。 樺太内で服役した者は豊原、泊岸、敷香、西棚丹、塔路、東内淵、久春内、泊居等の刑務所に収容され、採炭、伐採、建築等の労役に従事した。但し刑期の短い者で阿幸、蘭泊等の西海岸に収容され農業、漁業に従事したものもあった。
三、死亡者の発生
前述のごとき生活状態特に食糧の不足、医療衛生施設の不備等のため、一般の残留邦人、作業大隊で労働に従事している者、及び逮捕された者のうちには、相当数の病死者または労役間の事故死者を出した。終戦後から昭和二十四年末までの抑留または残留間の死亡者は約五、六千名と推定され、そのうち八割強のものは昭和二十二年末までに死亡している。
四、送還
昭和二十一年十二月から実施された送還に関する状況は本篇第五章において述べるとおりであるが、昭和二十一年七月までの間に送還された者は約二十六万四千名である。これらの送還による帰還者の主体は、病弱者、生活困窮者、失業者その他ソ連の樺太経営上必要度の少ない一般邦人であって、送還された軍人軍属は樺太、千島に配置された作業大隊に属していた者及びソ領移送作業大隊の入ソの際、病弱のため樺太に残された患者等であった。
第二節 昭和二十五年以後における抑留及び残留状況
一、昭和二十四年集団送還中絶後の状況
集団送還中絶後南樺太にあった日本人は、国際結婚の婦人、主要な産業の技術者及び受刑者等で総数約千数百名と推定され、豊原、大泊、真岡、本斗、敷香等の各都市並びに泊岸、内淵、塔路、珍内等の炭坑地帯に比較的多く残留していた。
国際結婚は終戦後樺太における朝鮮人の地位及び生活状態が高まるに従い、生活上の必要に迫られて日本婦人が結婚したものが多く、これらの日本婦人のらちには父母兄弟等が内地に帰還する際にも夫の朝鮮人とともに残留したものがある。ソ連の各種産業に従事している者は、比較的安定した生活を営み、また受刑者は昭和二十五年頃豊原刑務所及び西棚丹収容所に集結収容されたがその後ムイカ収容所に移された。
二、最近における残留状況
南樺太にあった受刑者はソ連本土と同じく日ソ国交回復を転機として昭和三十一年中に全部の帰還を終り、その後は帰国を希望する残留者が数回に亘って送還され現在に至っている。
現在南樺太に残留している日本人は五百名ないし六百名と推定され、その多くは朝鮮人と結婚した日本婦人である。そのうち帰国を希望している者は約二百名前後と思われる。残留者は南樺太の各地点に亘っているが、豊原、敷香、大泊、真岡、本斗等の都市並びに落合、珍内等の炭坑地帯には比較的多くの日本人が残っている。これらの残留者のらち、約二百名内外の者はソ連国籍を取っており、また約百五十名内外の者は身分証明書上朝鮮民族として扱われている模様である。
第八編 北鮮における越冬後の抑留及び残留日本人の状況
第二章 ソ軍撤退後における状況
(P57)
四、カムチャツカ出稼ぎ労働者
昭和二十一年四月、ソ軍司令官はカムチャツカ漁業労務者として朝鮮人を募集する際、日本人にも応募を求めた。その条件が有利であったため貧困者はこれに応募し、その支度金や米を家族の脱出費用にあてた。これら約一千名(内女性約百七十名)は五月末、朝鮮人労務者と共にカムチャツカに向い、契約期間満了後北鮮に帰り、その後昭和二十四年末迄に逐次帰国したが約十五名のものはカムチャツカに残留した模様である。