日露関係ゆかりの地

松山


(日露戦争の時、捕虜収容所がおかれた)

最終更新 2017/1

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日露戦争の時、捕虜収容所が松山に置かれた。

松山では、ロシア人俘虜を国際法に沿った人道的に扱っていたので、日本の人道主義と言う日本人が多い。欧米列強の仲間入りを果たしたい日本は、外国人記者にみられるところでは、人道的扱いをしていたが、サハリンのように、外国人記者がいなかったところでは、ロシア人俘虜の殺害が横行していた。

ニコライ・カサートキン/著、中村健之介/編・訳 『ニコライの日記(下)ロシア人宣教師が生きた明治日本』岩波文庫 (2011/12)  P241-P243

1905年11月8日(21日)、火曜
 サハリン軍管区総督ミハイル・リャプノーフ陸軍中将が、副官一人を従えて訪ねてきた。仙台の捕虜収容所から来たのだ。リャプノーフは、ロシアの行政がいかにずさんで混乱しているかを、例をあげていろいろ話した。
 一緒に来た副官は、日本人の、背筋が寒くなるような残忍さについて語った。サハリンで130人のロシア人の部隊が降伏して日本軍の捕虜になった。日本人は捕虜全員を、両手をしばり、森の外の平地へ引きずり出して、一人残らず斬り殺した。将校二人には拷問も加え、そのうえで殺した。そして地中に埋めた。一人のロシア兵がひそかに、捕虜になった部隊の後をつけていって、その一部始終を見たという。

1905年11月17日(30日)、木曜
 弘前から捕虜のブリサンフ・ビーリチが来た。ビーリチはサハリンで小さな工場をやっていたが、戦争中は志願者で編成した民兵隊の隊長だった。かれは、日本人のぞっとするような残虐行為をいくつも語った。
 サハリンでは外国人記者がいなかったので、日本人は人道的な国民の役を演じてみせる必要はなかった。それで日本人はありのままの本性を現した。たくさんのおとなしい住民が理由もなくひどく殴られ、女性は暴行された。男性と同じように斬り殺されたり銃殺されたりした女性やこどもたちもいた。囚人は「こいつらは何の役にも立たない」という理由で、集団で多くの者が銃殺された。精神病者たちも病院から引きずり出され、銃殺された。また、まるで家畜のようにデカストリへ連れていかれ、食べ物も与えられず、そこに放置された囚人集団もあった。
     

ロシア人墓地

松山市御幸1丁目の松山大学御幸キャンパス横にロシア人俘虜の墓地がある。

ロシア正教徒の墓 カトリックかプロテスタントの墓 イスラム教徒の墓 ユダヤ教徒の墓



売春

 松山に抑留されたロシア兵俘虜たちはかなり自由に松山で過ごした。このため、現地女性とのロマンスなども伝えられている。
 松山城二の丸庭園は、ロシア兵俘虜と日本人女性看護師のロマンスを秘めた金貨が出土したことから、恋人の聖地とされている。でも、ロシア兵俘虜の帰国が許されるようになると、二人は別れたとのことだ。別れることを前提に期限付きで付き合うのってロマンスなのかな。

 松山には道後温泉があるので、昔から売春が盛んな地域だったが、日露戦争でロシア人捕虜が多数滞在するようになると、売春産業が盛んになったそうだ。道後温泉の東側にある宝厳寺の参道が売春屋街になっていた。現在も売春産業は盛んなようだが、宝厳寺の参道はすっかりさびれて、風俗街は温泉の西側に移転している。

左写真:宝厳寺山門
 
中写真:宝厳寺境内にある正岡子規の句碑
 「色里や 十歩はなれて 秋の風」  宝厳寺参道が売春屋街になっていた当時の情景を読んだもの。漱石の坊ちゃんにも「山門のなかに遊郭があるなんて前代未聞」と書かれている。

右写真:宝厳寺参道
 今では風俗営業店は見られずすっかりさびれている。

左写真:道後温泉の人・人・人

中写真:風俗店の看板群
  道後の風俗店街は西側に移っている。

右写真:ストリップ劇場
 



(参考) 高崎・船橋

 日露戦争捕虜の強制収容所は松山のほかに全国各地に広がっていた。関東では、習志野・佐倉・高崎に収容所があった。高崎捕虜収容所では、陸軍病院で3人のロシア兵が死亡している。


 高崎市竜広寺には3人のロシア兵の墓地がある。場所は、高崎観音に行く途中の聖石橋の手前(高崎市街側)で、高崎公園の南側に当たる。お寺の入り口に案内看板があってわかりやすい。




船橋市習志野霊園には「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」がある。

(記念碑の説明)
この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。
第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。     昭和46年4月 船橋市




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