尖閣諸島概要



尖閣諸島の位置と面積




 尖閣諸島(魚釣島)は沖縄本島の西420km(久米島からは330km)、八重山列島石垣島の北西160km、台湾の北東170kmのところにある。中国大陸からは300km程離れている。地理的には、琉球列島とは異なり、台湾島から彭佳嶼を通る中国大陸から続く大陸棚の先端に位置する。
 尖閣諸島の総面積は6.3km2で、そのうち最大の島は魚釣島(3.8km2)である。


 尖閣諸島は、戦前、台湾と共に日本の領土だったが、戦後になると台湾は中国に復帰し、尖閣は沖縄と共にアメリカ統治 となった。尖閣周辺海域は、戦前・戦後を通じて台湾漁民の漁業が行われていた。1973年に沖縄が日本に返還されたときに、尖閣の施政権も日本に返還されたが、このとき米国は尖閣の領有権については関知しないとの態度だった。


歴史的経緯

 江戸時代、琉球(沖縄)は、独立国であると同時に、清国に服属し、さらに、薩摩藩の支配を受けていた。
 琉球は清国に服属していたため、清国・琉球の間で、朝貢貿易が行われていた。尖閣諸島は、冊封使船の経路上にあたり、標識島として活用されており、清国では島々に名称を付け地図にも記載していた。
 江戸時代に作成された、元禄国絵図・天保国絵図などには琉球国が入っている。尖閣諸島はこれらの地図に含まれておらず、尖閣が琉球外であることは明白である。

元禄国絵図の琉球国図
元禄国絵図は、1696年(元禄9年)に作成が命じられ、1702年までにほぼ全国の地図が完成したといわれている。
奄美 沖縄
この地図には久米島まで描かれている
八重山

 (国立公文書館デジタルアーカイブスに詳細画像が公開されている)

 日本で最初に尖閣の存在を知らしめたのは、林子平『三国通覧図説』(1785年)であり、この地図では、尖閣諸島に属する島々に中国名「釣魚台」「黄尾嶼」等と記され、中国領土と同じ赤色で彩色されている。この地図は元禄国絵図から80年もたって作られたにもかかわらず、日本や琉球の形は国絵図に比べ稚拙。

林子平 三国通覧図説 付図(部分)

右中央の薄黄色が沖縄。
左下の濃い黄色が台湾。
左側の赤色が大陸。
大陸と沖縄の間に航路が記載され、
途中に尖閣諸島の島々の島名がある。

尖閣諸島は、赤で着色。


(井上清/著「尖閣列島」 より)


注)江戸時代の尖閣諸島関連地図はここをクリック


 明治になると、日本は琉球の内国化をはかり、清国との間で、琉球に対する領有権争いが生じた。1880年、日本政府は、沖縄本島を日本領とし、先島諸島を清国領とする提案をしたが、妥結には至らなかった。
 1885年(明治18年)沖縄県令は尖閣諸島に国標建立について上申書を提出したが、政府は、清国の疑惑を招きかねないとの理由で、これを認めなかった。しかし、1894(明治27)年8月1日、日清戦争が開戦し、同年末に日本の勝利が確定的となると、翌年、1895年1月に、日本政府は、尖閣領有を隠密裏に閣議決定し、21日には沖縄県知事に対して、尖閣諸島に標杭を建設する指令を出した。しかし実際には、建設されることはなかった。1895年4月17日、下関条約により「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」が日本に割譲された。1880年には琉球の国境線について、日清両国は妥結することができなかったが、戦争に敗れた清は台湾を割譲したため、同時に琉球・尖閣諸島に対する日本の主権を認めることとなった。

 1943年11月27日、太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚になると、米英中3国はカイロ宣言を公表し、台湾・膨湖島のように日本国が清国人より盗取した地域を返還することとされた。
 1945年9月2日、降伏文書に調印し、天皇・日本国政府がポツダム宣言の条項を誠実に実施することが約束された。ポツダム宣言にはカイロ宣言実施が定められているため、天皇・日本政府にはカイロ宣言の条項を実施する義務が課された。降伏文書では、天皇・日本政府にポツダム宣言実施義務が課されたのであり、連合国には実施義務は課されていない。
 日本が米軍を主体とする連合国の占領地になると、本土は間接統治されたが、奄美群島・沖縄・八重山・尖閣・小笠原は米軍の直接統治となり、台湾は中華民国に施政権が返還されたため、日本政府は、奄美群島以南の施政権を失った。
 
 1947年9月、昭和天皇・裕仁は、自分や家族の保身のため、GHQに対して、米軍が沖縄の軍事占領を続けるにすることを求めた。裕仁の要望に対して、W.J.シーボルトは、以下のコメントをしている。
 It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.
 (日本の天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう希望していること、これは、疑いなく、多いに私利・私欲に基づく希望であることが注目される。)
 沖縄を犠牲にしたことが、天皇制が維持されている唯一の要因ではないが、平和条約発効後も沖縄の占領は続き、沖縄返還後も米軍基地が恒久化することとなった。

 1951年9月、サンフランシスコ条約に署名し、翌年4月28日に発効し、日本の占領統治は終了したが、奄美群島・沖縄・八重山・尖閣・小笠原では米国統治が続いた。これを「アメリカ信託統治」と言うこともある。奄美群島では、昇曙夢(ロシア文学者、ロシア正教徒)を中心とする奄美群島祖国復帰運動が激しさを増すと、米国は、1953年12月25日に奄美群島を日本に返還した。


 昇曙夢の墓(東京都多磨霊園)





 1968年6月26日、沖縄に先立って小笠原諸島が日本に返還された。下の切手は、小笠原諸島返還を記念して発行された。





 1972年、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が発効し、沖縄・八重山・尖閣が、日本に返還され、これらの地域における日本の施政権が回復した。
 日本への返還が現実的になり、日本がカイロ宣言を実施することができるようになると、中国・台湾は尖閣を日本に要求するようになった。このような経緯で、尖閣の領有権紛争が生じている。日本に施政権を返還した米国は、領有権に対しては、中立の立場であるとの見解を示している。

沖縄返還協定批准記念切手
(琉球切手)
沖縄返還記念切手
(日本切手)





カイロ宣言の留意点

 カイロ宣言は、文字通り宣言なので、それ自体で実施義務が生じるわけではない。1945年9月2日に調印した降伏文書には実施義務があるが、降伏文書では、日本にのみポツダム宣言実施義務が課されており、ポツダム宣言にはカイロ宣言の条項を実施するとされているので、カイロ宣言の条項を実施する義務は日本にのみ課されていることになる。
 カイロ宣言では、「満洲・台湾・澎湖のように、日本が中国から盗み取った領土は中華民国に返還しなくてはならない」となっている。このため、満洲・台湾・澎湖は日本が盗み取った領土であり、さらに、満洲・台湾・澎湖以外にも、盗み取った地域がありそれを返還しなくてはならない。
 日本は下関条約で台湾の割譲を受けたので、戦前、台湾などは日本の領土だった。1945年の降伏文書調印により、台湾などの返還義務が日本に生じた。しかし、この義務は日本に課されたものであり、米国には適用されないので、米国占領地域を中国が返還請求することはできない。このため、中国・台湾が尖閣の領有を主張するのは、日本への返還が現実的となって以降のことだった。




「尖閣」名称の由来

 日本で最初に尖閣の紹介した林子平は、『三国通覧図説』(1785年)付属地図の中で、「釣魚台」などの中国名を記載した。
 明治33年(1900年)、黒岩恒・沖縄県師範学校教諭は、地学誌に論文を寄稿、この中で、「尖閣」の名称を使用した。米国などが使用していた名称「 Pinnacle group」の日本語訳として「尖閣」と名づけた。
 黄尾嶼・赤尾嶼は、近年、日本では久場島・大正島と呼ばれるが、日米地位協定第二十五条1の規定に基づき設置 された合同委員会では、黄尾嶼・赤尾嶼と中国名が使用されている。

 尖閣諸島の他に、尖閣の名前がつく地名には、佐渡島の西海岸に「尖閣湾」がある。



「領土」と「版図」

 現在は、領土の単語が使用されることが多いが、版図とも呼ばれる。「版図」とは、領民の戸籍を作り、領土を地図に記載するとの意味であり、無人島を地図に記載することは、その国の領土であることを意味した。しかし、かつての琉球が、独立国であり、清国に服属し、薩摩藩の支配を受けていたように、ある国の版図であることが、別の国の版図でないことを意味しない。
 中世において、尖閣は清国の地図に記載されていたので、当時の領有観念では、尖閣は中国の版図(領土)であったことが分かる。
 尖閣と同じく、琉球も清国の地図に記載されているので、この意味で、琉球は中国の版図であった。このため、明治時代に、日本が琉球を内国化すると、清国がこれに抗議している。明治時代になって、近代国家の仲間入りをすると、中世的領有では不都合が生じてくるので、近隣各国で国境線を明確化する必要があった。日清間では、琉球が問題になったが、妥結することなく日清戦争に突入し、戦争の結果、台湾・澎湖・尖閣・八重山・沖縄・奄美、すべてが日本領となった。1945年の日本の敗戦に伴い、国境画定協議は振り出しの戻るはずであるが、実際には、現実には民衆の生活があるので、八重山・沖縄については、中国は領有を主張していない。尖閣は住民がおらず、台湾漁民の出漁海域なので、中国・台湾が領有権を主張している。
 



意外に少ない原油埋蔵量


 沖縄返還当時、尖閣周辺には1000億バレルの原油埋蔵があるとの推定が為されたことがある。その後、地層調査精度が上がったことなどにより、1994(平成6)年調査による推定埋蔵量は約30億バレルとなった。しかし、これも推定値に過ぎず、また推定埋蔵の全てが採掘可能であるわけもないので実際に採算に乗る原油量は多くない。
平成18(2006)年04月24日 参議院行政監視委員会における政府参考人(細野哲弘・資源エネルギー庁次長)答弁
 お答え申し上げます。今お尋ねの尖閣諸島付近の石油あるいはガスの埋蔵量でございます。
 この付近を含みます東シナ海につきましては、結論から申し上げますと、今先生御指摘のとおり、相当量の石油天然ガスが賦存している可能性が高いものと我々も認識をしております。
 今お話がありましたように、実際掘ってみないと分からないというところは事の性格上あるわけでございますけれども、平成六年に石油審議会の開発部会というところで、技術委員会で検討いたしました。そこの技術専門委員会でのあくまでの推定でございますけれども、その結果、東シナ海の中間線、日本側及び沖縄周辺海域における石油あるいは天然ガスの埋蔵量あるいは賦存資源量というものは石油換算いたしまして約五億キロリットルぐらいあるんじゃなかろうかと、そういうような推定が出ております。
(出典:国会会議録検索システム)
注)約五億キロリットルは約30億バレル。2014年、中国の原油輸入量は約22億バレル。



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