琉球処分と尖閣領有


琉球藩王

 1866年、琉球では清国からの冊封使を迎えて、最後の琉球王・尚泰の即位の儀式が行われた。 翌年、12月に、明治天皇により王政復古の大号令が発せられ、明治政府が誕生し(明治維新)、 1871年(明治4年)には廃藩置県が実施された。翌年(明治5年)日本政府は琉球の使者に対して、 琉球王・尚泰を琉球藩王とし華族に列するとの詔書を交付した。ただし、琉球藩を設置するとの明示があったわけではなく、さらに1874年には、琉球政府は副島外務卿と「琉球の国体・政体は永久に変わらず、清国との交通もこれまで通り」との確約文書を交わした。


牡丹社事件と台湾出兵

 1871年(明治4年)、那覇を出港した宮古・八重山の船4隻は強風のため遭難した。このうち1隻は宮古に帰還したものの、1隻は行方不明、1隻は台湾西部に漂着、1隻は台湾南東部に漂着した。台湾西部に漂着した船は、現地の中国人に救助されたが、南東部に漂着した1隻の乗船者の多数が、原住民により殺害された。南東部に漂着した1隻の船には、69名の乗船者があったが、上陸時に3人が死亡し、54人がパイワン族により殺害され、12人は中国人により救助された。救助された12人は福建省経由で那覇に戻った。殺害は斬首で、首はパイワン族により持ち去られ、胴体は中国人によって現地に葬られた。これを、牡丹社事件という。この事件については、以下の本に詳しい。
 ・宮国文雄/著『宮古島民台湾遭難事件』那覇出版社 (1998/05)

 事件から2年以上たった明治7年5月、日本は台湾に出兵した。しかし欧米からの批判を受けて、いったんは出兵を中止するも、司令官・西郷従道は台湾に出兵して牡丹社などを占領した。
 清国は日清修好条規違反との理由で日本に抗議したが、議論は平行線をたどった。イギリスの調停で、清国が日本に50万両(注1)を支払うこと、日本は台湾から撤兵することで決着した。これにより、台湾が清国の領土であることが確定した。日清両国の交渉では琉球の帰属について議論されなかったが、条約(注2)の中に「日本国の属民等」とあるので、宮古島は日本に帰属すると、日本は解釈した。しかし、清国の解釈は異なっていた。牡丹社事件ののちに、小田県(現在の岡山県西部と広島県東部)の4人が台湾で略奪・暴行を受ける事件(小田県漂流民事件)が発生しており、台湾出兵の口実となっていた。このため、清国は「日本国の属民」は小田県漂流民事件の被害者と解釈した。結局、琉球の帰属について、この時は何も定められなかった。

 台湾に出兵した日本軍は、殺された宮古・八重山の人たち首を持ち帰り、那覇に葬った。実際には、たくさんあった首の中から新しそうなものを適当に持ち帰ったようで、現地人の遺骨が混ざっている可能性があった。現在、那覇市若狭の護国寺に台湾遭害者之墓がある。
 台湾出兵が終わると、出兵に使用された蒸気船大有丸(イギリス製で排水量600トン)が琉球に与えられた。当初、琉球王府は蒸気船を辞退したが、押し付けられる形で琉球の所有となった。この船は、最初は、神戸・那覇間の航路に使用されたが、明治15年以降は那覇・宮古・八重山の航路に使用された。



 左写真は東京両国の回向院に建つ「台湾従軍兵糧方死者招魂之碑」。

注1)清国が支払う50万両(テール)は、被害者への見舞金として10万両、日本が台湾に作った道路などの代金として40万両であり、日本国への賠償金ではない。

注2)この時、日清間で締結された条約は『互換条款』という。


琉球処分と先島分割案

  1875年(明治8年)、日本政府は松田道之らを琉球に派遣して、清国との冊封関係を廃止し清国との外交関係を断つことを命令をした。1874年に副島外務卿と「琉球の国体・政体は永久に変わらず、清国との交通もこれまで通り」との確約文書を交わしたが、この約束は一方的に反故にされた。琉球王府は国家存亡に関する重大事態と認識し、これまでの清国との関係を保持できるように嘆願した。さらに、1876年(明治9年)には、幸地朝常・蔡大鼎・林世功らを密かに清国に派遣して、琉球の救済を嘆願した。清国政府は初代駐日大使・何如璋を通じて、清国と琉球との関係を一方的に断とうとする日本政府の対応に激しく抗議した。
 1879年3月、松田道之は軍隊・警察官600人余りを引き連れて首里城に入城し、琉球王府を接収した。 4月4日、琉球藩の廃止と沖縄県設置(注1)を全国に布告し、翌日鍋島直彬を沖縄県令に任命し、さらに、 琉球王を東京に居住させた(注2)
 日本の処置に対して、琉球王府内での反発は強く、また清国も強く抗議した。
 
 1880年3月、日本と清国の間で琉球問題を解決させるため、アメリカ前大統領グラントの斡旋で、日本政府は奄美・沖縄地区を日本領とし、宮古・八重山地区を清国領とする分割案を提案した(先島分割案)。同年10月、日本側代表宍戸・井上毅と清国側諸大臣との間で先島分割案で妥協した。これに対して、琉球から清国へ亡命した者から先島分割案反対の嘆願が繰り返し出され、さらに林世功の抗議の自殺により清国政府は衝撃を受けて条約案は棚上げになった。

注1) 琉球の名称を沖縄に変えた理由について、中国語由来の琉球を避けて、現地語由来の沖縄を採用したとの説がある。しかし、廃藩置県では日本国内すべて、旧国名や藩名を廃止して、県庁所在地や近くの地名を新たに県名としているので、琉球も全体を表す琉球を廃止して本島地域を表す沖縄を採用したのだろう。

注2) 東京に移された尚泰の住居があったところは、現在、千代田区立九段中等教育学校になっている。早稲田通りに面したあたりに当時の石垣が残っている。

 尚泰は侯爵に列せられ、貴族院議員を務めた(M23/2〜M34/8)。尚泰の跡を継いだ尚典、その跡継の尚昌も侯爵に列せられ、貴族院議員となっている(尚典:M34/8〜T9/9、尚昌:T9/10〜T12/6)。





 左写真は千代田区立九段中等教育学校と石垣。東京に移された尚泰の住居はここにあった。




大東諸島と尖閣

 日本と清国の間で、琉球の領有について決着していなかったが、日本政府の支配は進んでいった。

 1885年(明治18年)、沖縄県は大東諸島を調査した。調査後、日本は大東諸島を日本の領土として沖縄県に編入した。この諸島は、1820年にロシア海軍中佐(注1)ザハル・イヴァノヴィッチ・ポナフィディン(Zakhar Ivanovich Panafidin)により発見され(注2)、経度・緯度の計測がなされ、艦名にちなんでボロジノ諸島と命名されていた。しかし、その後、ロシア政府は領土に編入することも開発することもなく、無人島のまま放置されていた。

 尖閣列島は海外にもよく知られていた。ヨーロッパ諸国では、18世紀には台湾北部から尖閣諸島に連なる島々は、Ponkia、Hoapinsu、Hoayusu、Hoanoeysu、Tcheoeysuなどの中国名で知られていた(注3)
 ラ・ペルーズは、世界一周航海の中で、1787年4月9日マニラを出航し、台湾東方から琉球列島西方を通り日本海を北上し宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)を通って、1787年9月7日にカムチャツカのペトロハバロフスキーに入港した。この途中、尖閣諸島の位置を測定している。
 1845年、英国艦サマランチ号(艦長エドワード・ベルチャー)は、八重山から尖閣を調査し、まだ名前が付けられていなかった尖閣諸島の南小島と北小島にPinnacle Islandsと命名した。

 1885年(明治18年)、沖縄県は尖閣諸島を調査し、海鳥の住む無人島であることを確認した。沖縄県令・西村捨三は日本政府に対して日本の領土に編入することを求めたが、内務卿・山県有朋および外務卿・井上薫は、尖閣諸島は大東島と違って中国の記録も多数あり中国名もついているとの理由で、日本領とすることを否定した。

注1)ポナフィディンの階級が中佐だったのは最終のことで、大東島発見時は尉官。

注2)古来より琉球には、はるか東に「ウフアガリ」なる島があるとの伝承がある。これが、大東諸島のことであるとする推定も成り立つ。しかし、琉球には東方に「ニライカナイ」という神の世界があるとの信仰があるので、ウフアガリは現実の島ではなくて、信仰上の架空の島かもしれない。

注3)Ponkia、Hoapinsu、Hoayusu、Hoanoeysu、Tcheoeysuは以下の地図に記載されている。
 Composite: Asia, islands according to d'Anville.Kitchin, Thomas, 1787
島名は中国名であり、漢字で書くと以下のようになる。
 Pon-kia(彭佳)、Hoa-pin-su(花瓶嶼)、Hoan-oey-su(黄尾嶼)、Tche-oey-su(赤尾嶼)。
 Hoa-yu-suは釣魚嶼(北京語ではdiao-yu-su)と思われる。


日清戦争

 1894年(明治27年)7月25日、主に朝鮮半島をめぐり日本と清国の間で、日清戦争が勃発した。戦争は翌年3月には日本の勝利に終わり、4月17日、下関条約が調印され、台湾が日本へ割譲されることとなった。
 日清戦争で日本の勝利が濃厚になった1895年1月、日本政府は尖閣諸島を日本の領土に編入し、現地に標杭を建建てる閣議決定を行った。ただし、標杭が実際に建てられることはなかった。この時の決定は諸外国に知らされることはなく、具体的行動もなかったので、海外からの反応はなかった。


台湾領有

 台湾が日本に割譲されることに強く反発した現地・台湾は、1895年5月23日に台湾民主国の樹立を宣言した。 しかし、5月29日に日本軍が台湾北部に上陸すると、台湾民主国軍は総崩れとなり、6月4日には総統・唐景ッは大陸に 逃亡した。その後、将軍・劉永福が台南地方を中心に抵抗を続けるも、10月19日には、劉永福も大陸に逃亡して 組織的な抵抗は終了した。
 しかし、台湾民主国としての抵抗が終結した後も、台湾各地で散発的な抵抗が続いた。

 左写真は台湾民主国が発行した切手。日本の軍事侵攻により台湾民主国は崩壊したため、この切手の使用済みは少ない。


 台湾に上陸した日本軍は、明治28年6月、基隆に軍事郵便局を開設した。支配地域が広がり作戦行動が拡大するとともに台湾各地に明治29年3月までに20局の野戦郵便局が開設された。民政移管ができるようになったのは明治29年8月からで、それまでは野戦郵便局の消印が使用された。

 

上左の葉書は明治29年7月に台北の野戦郵便局から、彰化の第六野戦郵便局に宛てられたもの。
上右は民政移管後の明治31年に、治安維持のために駐屯した日本軍兵士が差し出した葉書。明治31年になっても、反日活動は続いていた。

 


 北白川宮能久親王は近衛師団長として台湾に出征したが、現地でマラリヤに罹患し台南で死亡した。1896年8月に発行された日清戦争勝利記念切手の図案の一つが北白川宮の肖像画となっている。


 台湾が日本の領土となったため、日本と台湾の中間にある琉球・尖閣は日本の領土であることに、 清国からの抗議はなくなった。また、琉球から清国へ亡命した者や琉球国内で琉球の日本領化に反対していた人たちの反対運動もなくなっていった。

最終更新 2019.4

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