尖閣諸島問題−やさしい尖閣諸島問題のはなし−尖閣諸島の領土問題を知っていますか?



注意書き          やさしい尖閣諸島問題のはなし 本文はこちら

ここは、やさしい尖閣諸島問題のはなしの注意書きです。むずかしい話なので、ふつうは読む必要ありません。



(注意)琉球と沖縄
 奄美諸島から先島諸島までの範囲を琉球と呼んでいた。琉球のうち、中央部の沖縄本島及び周辺の島々を合わせて「沖縄」とよぶ。なお「先島」は石垣島を中心とする「八重山」と、宮古島を中心とする「宮古」に分けることもある。また、八重山に宮古を含めることもある。薩摩藩の侵入によって、奄美地区は薩摩藩の直轄地とされ、琉球王国の範囲ではなくなった。このため、奄美地区を琉球に含めないこともある。
 明治になって、廃藩置県が行われると、琉球王国は沖縄県となった。これ以降、沖縄本島から先島までを合わせて「沖縄」と言われる。ただし、戦後の米軍占領下においては、全体を表すときは「琉球」、沖縄本島及び周辺の島々を表すときは「沖縄」とされた。
 ここでは、先島を含めた全体を言うときは「琉球」とする。


(注1)
 琉球の島々は、少なくとも更新世の初期以降、他の陸地から独立してきた。これに対して尖閣諸島は更新世に入ってからも何度か大陸と接続したことがあり、その最も新しい接続は約2万年前を最寒期とするウルム氷期に起きた。このときは現在の海面よりも120mほど低かったと推定されている。このため、尖閣諸島の動植物は台湾・大陸に近く、琉球とは異なる。


(注2)
 日本青年社は指定広域暴力団住吉会小林一家会長・小林楠扶が1961年に設立した右翼団体・楠皇道隊を1969年に改称したもの。最高顧問は住吉会会長・西口茂男。1999年から日本青年社の会長を務める松尾和哉は2003年に恐喝容疑で他の日本青年社幹部とともに逮捕されている。さらに副会長の滑川裕二は2004年に恐喝未遂容疑で逮捕されている。
 1978年、日本青年社は尖閣諸島の魚釣島に上陸して灯台を作った。


(注3)
 1968年、国連アジア極東経済委員会(ECAFE:UN Economic Commission for Asia and Pacific)により東シナ海の学術調査が行われた。この調査は、空中磁気探査・海上音波探査などにより、堆積盆地の存在を予測したもので、このような地形には原油が存在しうるとの理由で、原油埋蔵の可能性が指摘されたものだった。


(注4)
 2006年4月 参議院行政監視委員会で資源エネルギー庁次長が以下の説明をしている。
 「平成六年に石油審議会の開発部会というところで、技術委員会で検討いたしました。そこの技術専門委員会でのあくまでの推定でございますけれども、その結果、東シナ海の中間線、日本側及び沖縄周辺海域における石油あるいは天然ガスの埋蔵量あるいは賦存資源量というものは石油換算いたしまして約五億キロリットルぐらいある。」
 5億キロリットルは30億バレルに相当する。

(注5)
 尖閣諸島は、1896年に古賀辰四郎が、明治政府より30年間の無料貸与を受けたが、1918年に死去すると、息子の古賀善次が事業を引き継いだ。政府からの貸与は、その後、有料になっていたが、1932年に国有地払い下げを申請し、認められた。
 1972年に南小島と北小島が、埼玉県大宮市の不動産業・栗原国起に譲渡された。魚釣島は、1978年に善次の死後、妻の古賀花子が相続したが、その後、栗原国起に譲渡された。
 2012年9月、日本政府は、魚釣島・南小島・北小島の3島を20億5千万円で購入した。
 
  1932年に古賀が政府から払い下げを受けた時の購入金額は、笹川平和財団の島嶼資料センターによると、31円50銭(出典:八重山郡石垣町大字登野城処分調査書)とのことだ。今の金額にすると700万円ぐらいだろう。
 週刊ポスト(2012/5/25)によると、1972年に古賀氏から栗原氏へ売り渡されたときはの価格は約4600万円だった。今の金額に直すと1億円ぐらいだろう。1億円で買ったものを20億円で国に売ったのだから、栗原氏はずいぶん儲けたものだ。


(注6)
 古賀が尖閣で鰹節製造をしていた時には、最大で250人余りが住んでいた。


(注7)
 尖閣の学術調査は明治30〜明治40年代に黒岩恒、宮島幹之助、恒藤規隆らによって、また昭和10年代には正木任によってなされた。
 米軍統治下の1950年4月に高良鉄夫らによる第1回学術調査がなされた。高良鉄夫の調査隊は、その後も引き続き行われ、1968年7月には第5次調査が行われた。


(注8)
 アメリカが日本に尖閣諸島を返還関したとき、アメリカの態度に対して、佐藤栄作総理大臣や福田赳夫外務大臣は不満を表明した。


(注9)日中漁業協定・日台漁業取り決め
 1997年締結・2000年発効の「漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定」では、北緯27度以北の日中中間水域に対して、いずれの国の漁船も相手国の許可を得ることなく操業することができ、両国は自国の漁船を取り締まり、相手国の漁船・国民を取り締まらないものとされた。
 尖閣諸島は北緯27度よりも南にあるが、この海域は小渕恵三外務大臣と徐敦信特命全権大使との往復書簡で「相手国民に対して、当該水域では漁業に関する自国の関連法令を適用しない」ものとされた。
 台湾とは、2013年4月の日台漁業取り決め(公益財団法人交流協会と亜東関係協会との間の漁業秩序の構築に関する取り決め)で、同様な対応が定められた。
 ただし、これらの協定・取り決めは、領海には適用されない。


(注A)
 冊封は広辞苑では「さくほう」としている。琉球では「さっぷー」「さっぽー」と言う。


(注B)
 中国の支配は道徳による支配だったため、道徳の範囲内であるならば、琉球の定めた新国王にクレームがつくことはなかった。しかし、尚真のあと、第5子の尚清が即位したときは、長子を差し置いての即位に対して、儒教道徳に反することを理由にクレームがついたことがある。このときは、琉球から尚清が国王にふさわしいとの臣下の結状が提出されて即位が認められた。このように、琉球王の即位は、中国の定めた道徳に則っている必要があり、中国の意向を無視して新国王を定めることはできなかった。


(注C)
 中国による琉球の支配は、「道徳」「友好」「公然」だったのに対して、薩摩による琉球支配は「暴力」「収奪」「秘密」だった。薩摩による琉球支配は中国に秘密にしただけではなく、琉米条約の時にはアメリカ・ペリーに対しても秘密にされた。


(注D)
 日本政府が廃藩置県に先立ち、熊本の第六師団の分遣隊を沖縄に常駐せしめようとしたとき、琉球王府は、言を左右にして頑なにその受け入れを拒否しました。その理由は、つぎのとおりでした。
 第一に、南海の一孤島にすぎない琉球でいくら兵備を備えようが、それで以て敵国外患にあたることはできない。
 第二に、琉球のような小さな島国に兵力を配備すれば、かえって敵国外患を招くもとになり、国を危くする。
 第三に、むしろいかなる兵備もせずに、外来者に対してはただ礼儀正しく歓待すれば、「柔よく剛を制す」のたとえどおり、国を平和に保つことが可能だ。
 琉球王府は、軍隊を常備するかわりに、何よりも平和を国是とし、近隣諸国と貿易をとおして友好関係を築くことこそが、国の安全を保つ唯一最善の道と考えていたのです。
 これを往時の小王国の安易な現実逃避策、もしくは「敗北主義」として軽視したり、笑殺することはたやすいでしょう。だが、わたしには、このような思想・手法こそが、むしろ小国の安全を保障し得る最も賢明な方策に思われてなりません。事実、そのような琉球古来からの伝統的な平和思想によって琉球王国は、数百年の長きにわたって無事平穏に小国を維持することに成功したからです。もっとも慶長一四(一六〇九)年の薩摩の「琉球入り」の場合と明治期には、軍事力で脅され、主張を通すことは叶いませんでしたが…。
   大田昌秀/著『死者たちは、いまだ眠れず』新泉社 (2006/08)P244


やさしい尖閣諸島問題のはなし

最終更新 2017/5