尖閣諸島の領土問題を知っていますか


(注意)

 現在、尖閣諸島は日本が支配しているけれど、歴史的経緯から中国・台湾が領有権を主張し、日本の支配に抗議しています。尖閣諸島問題を、優秀な小学生ならば理解できるように、やさしく書きました。このため、用語の使い方等、厳密さに欠けるところがあります。表現に正確さを欠くところは注意書きをご覧ください。
 また、尖閣問題を理解するためには、琉球の歴史を理解する必要があるため、琉球史を書きました。

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尖閣諸島問題 参考文献


尖閣諸島(せんかくしょとう)の領土問題とは どのようなことですか?

 江戸時代(えどじだい)尖閣諸島(せんかくしょとう)は中国と琉球(りゅうきゅう)(注意)の間を航海する人たちが目印として使っていました。この時代、琉球は独立国(どくりつこく)であると同時に中国の領土(りょうど)でした。また、薩摩藩(さつまはん)鹿児島県(かごしまけん))は(おど)して年貢(ねんぐ)を取り立てるなど、琉球に言うことを聞かせていました。尖閣諸島は琉球の領土でも、日本の領土でもありませんでした。
  明治になると、日本は琉球を日本の領土にすることに決めましたが、中国はこれに反対しました。1894年、日本と中国が戦争になると、日本政府(せいふ)は尖閣諸島を日本の領土にすることを決めました。戦争は日本が勝って、台湾(たいわん)が日本の領土になったため、台湾と日本の間にある琉球や尖閣諸島は日本の領土であることが確定(かくてい)しました。
 それから50年後、太平洋戦争で日本が負けると、台湾などは中国に返されました。琉球や尖閣諸島はアメリカ軍が統治(とうち)しました。
 さらに20年後、琉球がアメリカから日本に返されることになると、中国や台湾は尖閣諸島を中国・台湾に返すように主張(しゅちょう)しました。1973年、アメリカは琉球を日本に返しました。この時、尖閣諸島がどの国の領土であるのかは関係国で決めるものとして、政治(せいじ)を行う権利(けんり)のみを日本に返しました(注8)
 このため、現在(げんざい)、尖閣諸島は日本が統治していますが、中国・台湾は自分の領土であると抗議(こうぎ)しています。


尖閣諸島(せんかくしょとう)は どこにあって どんなところですか?

 尖閣諸島(せんかくしょとう)沖縄本島(おきなわほんとう)の南西、台湾(たいわん)の北東にある無人島(むじんとう)です。大きな島はなく、一番大きな魚釣島(うおつりじま)面積(めんせき)でも3.8km2で、これは伊豆大島(いずおおしま)の24分の1になります。2場目の大きさの久場島(くばしま)黄尾嶼(おうびしょ))は、1km2にも満たない島で、尖閣諸島の総面積(そうめんせき)は6km2ほどです。
 沖縄本島から魚釣島までは420km、石垣島(いしがきじま)からは160km、台湾からは170km、中国大陸(ちゅうごくたいりく)からは300kmほど離れています。鹿児島市(かごしまし)からは950kmほど離れていますが、これは鹿児島と東京の距離(きょり)と同じです。

 地理的(ちりてき)には、琉球(りゅうきゅう)列島とは(こと)なり、中国大陸から(つづ)大陸棚(たいりくだな)先端(せんたん)にあるので、動植物は琉球列島とは異なり、台湾に似ています。ただし、センカクモグラやセンカクオトギリ、センカクツツジのような尖閣固有(せんかくこゆう)の動植物もあります。(注1)
 爬虫類(はちゅうるい)では、沖縄本島で有名なハブはおらず、台湾や中国大陸に生息しているシュウダがいます。植物では、ヤシ科のビロウが(いた)(ところ)に見られます。また、琉球列島でふつうにみられるソテツ(るい)が全くないという特徴(とくちょう)があります。 
 尖閣諸島の動植物は固有(こゆう)貴重(きちょう)なものがありますが、暴力団(ぼうりょくだん)住吉会(すみよしかい)小林組の右翼(うよく)団体(だんたい)(注2)が、1978年に尖閣に上陸(じょうりく)してヤギを放置(ほうち)したため、野生化したヤギによる自然破壊(しぜんはかい)が進んでいるます。このため、貴重な動植物のうちのいくつかはすでに絶滅(ぜつめつ)したおそれがあります。



尖閣諸島(せんかくしょとう)の石油は少ない

 1970年ごろ、尖閣諸島(せんかくしょとう)周辺の海底(かいてい)には1000(おく)バレルの原油があるとうわさされたことがあります(注3)。この(りょう)は、イラクの原油埋蔵量(まいぞうりょう)と同じぐらいな、膨大(ぼうだい)な量です。しかし、1994年に調査(ちょうさ)したところ、石油・天然ガスの埋蔵量は石油換算(せきゆかんざん)で30(おく)バレル程度(ていど)と、たいした量ではないことがわかりました(注4)



尖閣諸島(せんかくしょとう)に人は住んでいるの? 尖閣諸島に行けるの?

 現在(げんざい)尖閣諸島(せんかくしょとう)に人は住んでいません。日本政府(せいふ)が所有している(注5)ので、上陸(じょうりく)したいのならば許可(きょか)必要(ひつよう)ですが、日本政府は許可しないので、普通(ふつう)は尖閣諸島に上陸はできません。
 明治時代(めいじじだい)には鰹節(かつおぶし)工場があって工場関係者(かんけいしゃ)などが住んでいたことがあります(注6)。また、戦後(せんご)米軍(べいぐん)支配(しはい)していた時代は、台湾(たいわん)漁民(ぎょみん)が上陸して野鳥の(たまご)採集(さいしゅう)していたことがあります。同じころ、琉球(りゅうきゅう)(注意)学術(がくじゅつ)調査(ちょうさ)(だん)が上陸して動植物などの調査をしたことがあります(注7)
 付近の海から尖閣諸島の島々を見るためには、漁船で行く必要があります。しかし、海上保安庁は、漁民以外が漁船に乗ることを禁止しているので、ジャーナリストなどは「漁民見習い」として乗船します。



尖閣諸島(せんかくしょとう)で日本は漁業をあまりしていない

 尖閣諸島(せんかくしょとう)はどの国からも遠いので、魚を取っても、氷がないと、(なま)のまま運ぶことができません。明治時代(めいじじだい)の日本は尖閣諸島の魚釣島(うおつりしま)(かつお)(ぶし)を作っていました。その後、台湾(たいわん)製氷(せいひょう)設備(せつび)ができると、台湾の漁船(ぎょせん)が尖閣諸島周辺(しゅうへん)で魚を取るようになりました。先島諸島(さきしましょとう)漁民(ぎょみん)も台湾漁船に乗って漁業(ぎょぎょう)することがありました。
 戦後(せんご)になると、先島諸島にも製氷設備ができて、尖閣諸島周辺で漁業ができるようにりました。しかし、この地域(ちいき)は人口が少ないため、たくさん魚を取ってきてもあまり売れないので、日本の漁民は尖閣諸島周辺であまり漁業をしていません。人口が多い台湾や中国の漁民は大型(おおがた)の漁船で大規模(だいきぼ)に漁業をしています。
 領海(りょうかい)(のぞ)く尖閣周辺海域(かいいき)で、日本・中国・台湾の漁船が魚を()るときは、それぞれの国が()()まる決まりなので、中国や台湾の漁船を日本が取り締まることはありません。中国船がこの海域で漁業をすることや、尖閣諸島の近くを通航(つうこう)することは、国際法(こくさいほう)上は合法(ごうほう)です。(注9)


尖閣諸島問題を理解するためには、歴史的経緯を知る必要があります。少し、難しい内容です。


室町・江戸時代の琉球

 室町時代・江戸時代、琉球(注意)は独立国でしたが、同時に中国の冊封(さくほう)(注A)国でした。つまり、琉球の王様は中国の皇帝の家来となって、中国の道徳や文化の恩恵にあずかる国になっていました。時々、琉球王の使者が中国に行って貢物をし、たくさんのお土産をもらって帰りました。このとき、中国との貿易も行われました。また、琉球王が死亡した時は中国から皇帝の使者がやってきて、新しい琉球王を定めました(注B)




 中国皇帝の使者が琉球王を定める儀式のようす

 江戸時代、琉球は独立国で中国の冊封国でしたが、同時に薩摩藩(今の鹿児島県)の支配(注C)を受けていました。薩摩藩の支配によって、琉球は重い年貢を取り上げられました。薩摩藩が琉球を支配していることが中国に知られると、冊封が認められず、中国と貿易ができなくなるので、薩摩藩の支配は中国には秘密にされました。



閩人(ビンじん)三十六姓と尖閣諸島の利用

 室町時代・江戸時代の琉球は中国の冊封国だったため、時々、琉球王の使者が中国に行って貢物をしました。このためには航海に使う大型帆船や中国語ができる人や航海の技術者が必要でした。中国皇帝は大型帆船を無償で与え、必要な人材も派遣しました。これらの人たちは、中国福建省出身者だったので、閩人(ビンじん)三十六姓と言われました。(ビン)とは中国福建省のことです。閩人(ビンじん)三十六姓の人たちは、直ちに琉球に土着したのではなくて、両国の間を往復するうちに定住することになりました。しかし、貿易が停滞した時など、中国に帰った人たちもありました。
 明治になる以前の琉球では、閩人(ビンじん)三十六姓の人たちは、中国人とみなされていました。

 中国と琉球の間の航海では、尖閣諸島の島々を目印に使っていました。このため、尖閣諸島を発見して利用していたのは、中国や琉球に住み、両国の間を航海していた閩人(ビンじん)たちです。
 このように、尖閣諸島は閩人(ビンじん)によって利用されていたため、中国では各島に名前を付けて、地図にも書き込んでいました。


 那覇市久米に建てられた 閩人(ビンじん)三十六姓 の記念碑





尖閣諸島はどこの領土だったのでしょう  (江戸時代)

 江戸時代の琉球国は薩摩藩が支配していたため、江戸幕府が作った日本地図の中には琉球図もありましたが、尖閣諸島は記載されていませんでした。尖閣諸島は琉球の領土ではなかったためです。
 一方、琉球は中国の冊封国、すなわち、中国の道徳や文化の及ぶ範囲だったため、中国の領土と考えられていました。尖閣諸島は中国大陸と琉球の間にあるので、中国では尖閣諸島を領土として島に名称を付け、地図にも載せていました。日本で最初に尖閣諸島を紹介した林子平は、島々の名前を「釣魚台」「黄尾嶼」など中国名で書き、地図は中国と同じ色塗りをしました。


 左は、日本で最初に尖閣諸島を紹介した林子平の地図(部分)。尖閣諸島の島々は中国と同じ桃色を塗り、「釣魚台」「黄尾嶼」など中国名で書いた。 (井上清/著『尖閣列島』より)





日本による琉球・尖閣諸島・台湾の領有 (明治時代)

 1872年(明治5年)、日本政府は琉球処分として、琉球国を廃止して、日本の領土とすることに決定しました。琉球国に対して、中国との冊封をやめるように命じましたが、琉球はこれに従わなかったので、1879年(明治12年)日本は軍隊を派遣して首里城を占領しました(注D)
 中国は琉球に対する権利を主張して、日本の行動に反発したため、日本政府は沖縄本島を日本領として、先島諸島を中国領とする案を提案しました。これを、先島分割案といいます。このような動きに、閩人(ビンじん)三十六姓の人たちは強く反発し、中国にわたって琉球を救ってほしいとの運動をしました。このような運動などがあって、先島分割案はなくなりました。
 このころ、日本の中には尖閣諸島を日本領にしたいとの意見を持つ人もいましたが、日本政府は中国との対立を嫌って、尖閣諸島を日本領にすることを認めませんでした。

 1894年(明治27年)、日本と中国は戦争をします。日清戦争といいます。この戦争は日本が勝って、台湾は中国から日本へ譲渡され、日本の領土になりました。台湾が日本の領土になる少し前、日清戦争で日本の勝利が確実となると、日本政府は尖閣諸島を日本領にすることを決定しました。ただし、標柱を建てるなど具体的な行動はしませんでした。
 日清戦争以前は、日本と中国の間で琉球や尖閣諸島がどの国の領土であるのか決まっていませんでした。しかし、台湾が日本の領土になった結果、琉球や尖閣諸島は日本の領土であることが、日本と中国の間で合意されました。

 日清戦争に日本が勝利して、琉球が日本の領土であることが確定すると、閩人(ビンじん)三十六姓の人たちも、これに反対せずに、他の琉球の人たちと同じように、日本人になりました。



 日清戦争に勝利して台湾を領土にした日本は、その後、韓国王妃を殺し、さらにロシアを奇襲攻撃して戦争を仕掛けるなどして、朝鮮半島を植民地にして、南樺太を領土としました。
 その後、さらに、日本の軍隊は、中国東北部で鉄道を爆破し、中国を攻撃して、中国東北部に日本の言いなりになる満州国という偽物の国をつくりました。日本軍は、その後も中国を侵略し、中国侵略が長引くにつれて、アメリカ・イギリスとも戦争になりました。
 中国・アメリカ・イギリスなどは、日本が中国などから盗み取った地域や、暴力やどん欲によって奪い取った地域などから、日本を駆逐することを宣言しました。



台湾の返還と琉球占領 (昭和時代、第2次世界大戦終結のとき)

 日本と、中国・アメリカ・イギリスなどとの戦争は日本が負けました。この結果、日本が中国から盗み取った地域や、暴力や貪欲によって奪い取った地域などから、日本は駆逐されることになりました。
 台湾は中国になり、琉球・奄美・小笠原はアメリカが統治しました。尖閣諸島もアメリカが統治しました。アメリカ統治時代には、尖閣諸島周辺で台湾の漁船が漁業をしていました。また、台湾漁民は時々尖閣諸島の島に上陸して、海鳥の卵を採集していました。



 アメリカが統治していた時代に、琉球で使われていたお金



琉球の日本復帰(昭和時代、戦後25年)

 1970年ごろ、琉球が日本に返還されることになると、尖閣諸島をどうするかが問題になりました。日本は尖閣諸島は日本の領土であり日本に返還するように求めましたが、中国や台湾は日本に返還することに反対しました。アメリカは対立に巻き込まれることを避けて、尖閣諸島がどの国の領土であるのかは、関係国が決めることであってアメリカは関知しないとしたうえで、戦前は日本が施政権を持っていたので、日本に施政権を返還するとしました。
 このため、現在、尖閣諸島は日本が支配しています。日本は日本の領土と主張していますが、中国・台湾はこれに抗議しています。


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最終更新 2017/7