尖閣列島問題参考書


原田禹雄/著 『尖閣諸島 冊封琉球使録を読む』 榕樹書林 (2006/01)


 著者は、もと医療官僚で、歴史学の専門家ではなかったが、返還直前の琉球で医療活動に従事した縁で、沖縄史に興味を持ったようで、琉球冊封使関連の著書などがある。尖閣問題では、日本史学者の井上清による尖閣中国領論が有名であるが、本書は、井上の琉球冊封使関連の歴史理解に対して反論している。文章のニュアンスは、反論というよりも、罵倒のように感じる。
 本の最初の1/5程度が、尖閣問題の解説と、井上説の批判。残りの4/5は冊封使関連文書の抄訳。ただし、この中にも注釈として、井上説批判が多数書かれている。井上の尖閣中国領論は歴史的状況を多面的に論じているのに対して、本書は冊封使録の著者の解釈のみで、井上説を否定しているが、部分的考察にとどまっている。 P21に以下の記述がある。  
念のために、郭汝霖の通過した標識島を使録からあげると、東湧山、小琉球、黄茅、釣嶼、赤嶼である。東湧山は中国固有の領土であることを、私もまた認める。しかし、小琉球=台湾が、明代に中国固有の領土であることを私は認めない。『明史』巻三二三の列伝二一〇の外国四に、「鶏龍」がある。この鶏龍こそが、今、いうところの台湾なのである。従って郭の通過した小琉球は、井上のいうような「中国領であることは自明の島」では、断じてない。従って、明代の尖閣諸島に対する井上の主張の根拠は、完全に虚構なのである。
   『台湾が、明代に中国固有の領土であることを私は認めない』とは、いったいなんだ?!  確かに、台湾が中国の領土になった時期は清代の鄭成功の時代以降であるとする見解が多いだろう。しかし、明代に台湾が中国領だったとする見解も存在し、どちらが正しいというものではなくて、これは、領土認識の違いだ。
  注)詳しくは、「台湾はいつから中国の領土か」を参照。
 
 原田の見解が如何であっても、それと異なる見解が『完全に虚構』などというものではない。まして、原田の書くように『私は認めない』などと、原田が認めることが、学説の真実の条件ではない。いったい、原田は何様のつもりで書いているのか、呆れる。
 こんな書き方ではなくて、台湾は清代に中国領となったとの説の正当性を説明して、その上で、明代には尖閣も中国領ではないと、普通に説明すればよいのに。
 原田禹雄と井上清の見解の相違は、原田禹雄が清代以前の領有を近代ヨーロッパで生まれた国際法の法理で理解しようとするのに対して、井上清は、当時の明・清の領土認識で理解しようとする事から来ている。
 この件に対して、高橋庄五郎/著「尖閣列島ノート」P194には、以下の記述がある。 
中国(明)の太祖が琉球中山王察度に詔諭をあたえたのは、一三七二年であり、太祖の冊封使が琉球に来たのは、一四〇二年である。以来、琉中間には国境問題も領土紛争も全くなかった。琉球国は三六島であり、琉球国と中国とのあいだに第三国があるはずはなかったし、無主の地というものがあるなどという理屈は、思いもおよばなかったことである。陳侃が皇帝の使節として琉球に赴いたときには、尖閣列島にはすでに中国の島名が付けられてい た。そして、一五三四年に発表された陳侃の『使琉球録』は、四〇〇年も後世の国際法の法理「無主地の先占」に対抗するために書かれたわけではない。これは、国際法における無主地の先占というものを知っていて、デ・ロングアメリカ公使やアメリカのル・ジャンドル前厦門領事などにそそのかされて、一八七四(明治七)年に、台湾を無主の地として兵を送り、中国から厳重な抗議を受けて、大久保利道内務卿が自ら中国に赴かなければならなかった明治政府とはわけが違う。中国でも琉球でも官吏や船員は、福州から那覇へつうずるこの海の道をよく知っていた。琉球の船員は慶良間で養成され、海外へ渡航する船の船員の三分の二までは慶良間の出身者であった。那覇と福州とのあいだにある島は、琉球のものでなければ宗主国中国のものだという認識であった。また当時の中国の領土意識から考えてもそうであった。
   本書は、高橋庄五郎の本が出版された後、17年もたってからの出版なのだから、高橋の見解に対する考慮があってしかるべきではないだろうか。そのような考察もせずに、井上清説を『完全に虚構なのである』と断じているのは、著者の不勉強か、それとも、単なる悪意だろうか。

 ところで、P118には、鄭若曽『琉球図説』の解説がある。ここでは、以下のように記載し、井上清説を批判している。
琉球図説と明記した中に、小琉球の台湾も尖閣諸島も…澎湖諸島まで描きこまれている。この図を出して、「中国人が、明確に琉球国図の中に書いているのだから、台湾も宝庫等も琉球のものだ」と、私はいう気はない。しかし、それと同じことを、今もなお、そ知らぬ顔で主張し、強弁している人がいることだけはたしかである。
 琉球図に台湾が描かれているのに台湾は琉球の一部ではないのだから、中国図に尖閣が書かれていることは、尖閣が中国領である根拠にはならないとの主張だ。冊封体制における宗主国と朝貢国の違いがまったく分かっていないようだ。宗主国の領土認識では、琉球などの朝貢国を含めて、地図に書かれている範囲が中国領であり、朝貢国は、その支配範囲が、その国の領土であるとの認識があった。このため、井上清のような考えは、当然にありうるのであって、鄭若曽『琉球図説』に台湾が載っていても、井上説の批判にはならない。ただし、領土の領有の定義によって、井上説に反対であるというのならば、それは正当な考えだ。


 次に、「陳侃・使琉球録」について、原田禹雄説を検討する。

 本書には『陳侃・使琉球録(1534年)』の一部の翻訳が掲載され、注意書きの中で、井上清の説を批判している。

原田禹雄/著 『尖閣諸島 冊封琉球使録を読む』P29~31

 (嘉靖一二年、一五三三、一一月)この月、琉球国の進貢船が福州に到着したが、私たちはそれをきき、うれしく思った。福建の人々は、(那覇への)航路をそらんじていないので、ちょうど、そのことをしきりに気にやんでいたのであった。到着をよろこび、航路の詳細をたずねることができた。翌日、また琉球の船が到着したとの知らせがあった。それは、世子が長史の蔡廷美を迎えによこしたのである。私たちは更にうれしかった。航路のくわしいことを、必ずしも朝貢の使者にたずねなくとも、案内をしてくれるものができたからである。長史の謁見の折、世子の口上を申し述べ、また、こんなことを言った。
 「世子はまた、福建の人が、船の操縦が十分ではないことを心配いたしまして、看針通事一人に琉球の船員で、航海によく馴れた者三〇人を引率させて派遣し、福建の船員の代わりに航海の仕事をさせることにいたしました。」
 これまた、うれしいことであった。必ずしも案内する船をたよりにせずとも、舟に共に乗って、助けあえるものができたのである。

(途中省略)

 井上清は、《琉球人のこの(尖閣)列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった》と書いている。しかし、ここの陳侃の言葉は、始めて琉球へゆく冊封使が、尖閣諸島の知識を、熟練した琉球の船員から得たことを示しており、井上は完全に逆のことを書いていることがわかる。封舟の十倍以上、明代の進貢船は那覇-福州を往還している。尖閣諸島の知識は、封舟以上に必要であり、集積されていた。その上、封舟の針路を指導したのも琉球の夥長であった。きちんと冊封使録を読んでおれば、井上のこのような根拠のない発想は起こるはずはない。


 翻訳には訳者の考えがどうしても入るので、原文のニュアンスを必ずしも正確に伝えるものではない。研究者による解釈が違うような場合は、原文に立ち戻る必要がある。

 陳侃・使琉球録の写本が、琉球大学付属図書館 デジタルギャラリー 貴重書デジタルアーカイブの伊波普猷文庫 で公開されている。
  http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/iha/
この中にある、『16.陳侃使録 1冊 筆写者及び年代不詳』をクリックすると『陳侃使録』の画像が表示されるので、この12ページに、該当文章がある。

また、筑波大学図書館のページには『沖縄の歴史情報 CD-ROM版』が公開されている。
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/okinawa/cdrom-index.html
この中の、第8巻に 陳侃『使琉球録』 がある。画像、テキストの両方があって便利。
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/8-5.htm
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/index_ch.htm
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch.txt
この文章は、使事紀畧の0005に画像がある。
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/05/00000005.gif

[原文(原文には空白や改行はないが、読みやすいように付けた)]
 是月 琉球国進貢船至 予等聞之喜 閩人不諳海道 方切憂之 喜其来 得詢其詳
 翌日 又報琉球国船至 乃世子遺長史蔡廷美来迓予等 則又喜其不必詢諸貢者 而有為之前駆者矣
 長史進見 道世子遣問外 又道世子亦慮閩人不善操舟 遣看針通事一員 卒夷梢善駕舟者三十人代為之役 則又喜其不必藉諸前駆 而有同舟共済者矣
 大蹇朋来 憂用以釈 即此而観 世子其賢矣乎 敬使所以敬君也 敬君所以保国也 懐徳畏威 邦其永孚于休

[私の日本語訳]
 この月、琉球国の進貢船がやってきたので、私たちは、これを聞いて喜んだ。閩人は航路を暗記していないことを憂慮していたので、来航により、詳細を尋ねられ、喜んだのだ。
 翌日、また、琉球国船が来たとの知らせがあった。世子(王の世継)が、私たちを迎えに、長史(役職名)蔡廷美を派遣したのだ。水先案内人がいれば、進貢の者に尋ねる必要がないので、喜んだ。
 長史は進み出て、世子の挨拶を伝えた。また、世子は、閩人が操船を良くできないことに配慮して、看針通事(中国語のできる航海士)一人と、彼が率いる、操船が上手な夷梢30人を、代役させるために、派遣したとのことだ。同じ舟で助け合う者がいれば、水先案内人を借りる必要はないので、さらにまた嬉しかった。
 (以下、ほめ言葉) 

[注]
 閩:五代十国時代、中国福建省あたりに存在した国の名前。閩人とは、福建省あたりの人のことを言う。
 長史蔡廷美:琉球大学図書館写本では長司蔡廷美となっているが、誤写と思われる。
 夷梢:「夷稍」とも読めるが、『沖縄の歴史情報 CD-ROM版』のテキストデータにしたがって、夷梢とした。『夷』は中国文化の恩恵をこうむらない民族のことで、特に、東方の人たちを言う。『梢』は「こずえ」の意味であるが、「船の舵」の意味もあり、「梢子」と言うと、船の舵を取る船員、船頭の意味になる。



 原田禹雄は、「福建の船員の代わりに航海の仕事をさせる」と訳しているが、「閩人不善操舟」を理由に、「夷梢善駕舟者三十人代為之役」としているので、「代わりに航海の仕事をさせる」のではなくて、「代わりに操船の仕事をさせる」との意味である。航海の仕事をさせるのは、看針通事と琉球の船員だ。

 また、原田禹雄は、閩人を福建の人と訳している。閩人と福建の人は、ほぼ同義だから、この訳は特に問題ないと思う。
 陳侃は閩人が航路不案内のことを憂慮していたので、蔡廷美が迎えに来たことを喜び、さらに看針通事等を連れていたことを喜んだ。陳侃の喜びは、「善駕舟者」に限定されるわけではなく、むしろ、蔡廷美や看針通事が来たことを喜んでいる。ところで、原文を見ると、陳侃は蔡廷美や看針通事のことを、夷梢とは書いていないことが分かる。
 原田は本文で、夷を琉球人と訳しておきながら、「尖閣諸島の知識を、熟練した琉球の船員から得たことを示しており」と書いているが、これでは、陳侃が看針通事を「夷梢」と書いているようになってしまい、不適切な訳文である。

 陳侃は、蔡廷美や看針通事のことを、「夷梢」とも「琉球人」とも書いていない。それでは、いったい彼らは何者だったのだろうか。この疑問に対して、閩人三十六姓を知る必要がある。



閩人三十六姓と蔡廷美、林盛

 琉球が、まだ3つの王国に分かれていた時代の1372年、明国・洪武帝は察度を「琉球国中山王」として冊封した。そして、琉球は明国より朝貢に使用する船舶を下賜された。このとき、洪武帝の命により、朝貢に要する航海・通訳などの、多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。彼らの多くは、福建省あたりの出身だったため、閩人三十六姓と呼ばれた。36の姓があったわけではなく、縁起が良い数字なので、36と言われたと説明されることが多い[1]。もっとも、閩人は、この時以前にも、交易目的で琉球に居住していたので、冊封に伴って来琉した閩人と合わせて、閩人三十六姓が作られたものと考えられる。 琉球の大航海時代を支えたのは、明朝との朝貢関係が開始された初期段階において明朝から大量に下賜された海船であり、その運用に携わった多数の船乗り集団だった[2]
 朝貢業務に不可欠な漢文外交文書の作成も久米村の華人たちが担っており、現場で活躍する通訳(通事)なども華人であり、進貢船を動かす船長(火長)はほぼ例外なく華人であり、水夫(梢水)も当初は大半が華人であったと考えられる[3]

 現在、那覇市中心部にモノレールが通っているが、かつて、このあたりは海の中で、那覇市久米・松山などは、浮島だった。閩人三十六姓は浮島に住み着き、久米村を開いた。このため、閩人三十六姓のことを久米三十六姓とも言う。
 彼らは、中国語を話し、中国風の生活をしていたが、明が清に変わると、清の習俗を取り入れることをせずに、琉球化していった。しかし、彼等は自らを中国人として自負し、王府からもまた中国人とみなされた[4]

 琉球の朝貢は、閩人三十六姓によって担われていたが、明末になり、朝貢貿易が退潮すると、久米村も衰退し、一時は五姓にまで減ったとも言われている。
 久米村衰退に伴い、中国への航海術も低下した。1594年、琉球国の進貢使・菊寿らは、航路を誤って浙江に漂着した。福建の役人・金学曾が朝廷へ報告したため、阮国を遣わして一行を護送して琉球に送り届けた。また、1600年、琉球の長史・蔡奎は、世子・尚寧の冊封を願い出たが、帰路を誤り、福建の役所に援助を願い出た。このため、阮国と毛国鼎(福建省瀧溪県の人)が、蔡奎等を琉球に送り届けた。
 こうした中、琉球王は、新たな閩人三十六姓を賜ることを明に願い出るも、受け入れられず、代わりに、阮国、毛国鼎、二姓の久米村入籍が許可された。その後、さらに、福建人の来琉があって、航海術も復活した。

 閩人三十六姓の名門、蔡氏は、1300年代に中国福建省から琉球に渡り、久米に移り住んだ蔡崇を祖とする。蔡氏大宗家譜によると、蔡廷美は蔡崇から数えて6代目に当たり、計五度進貢通事等として渡唐した人物である。

 陳侃等謹題為出使海外事では、『看針通事』の名前を、『林盛』としている。(以下に画像がある。)
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/10/00000002.gif
 陳侃使録の杜氏通典には、以下の記述がある。

 若大夫金良 長史蔡瀚 蔡廷美 都通事鄭賦 梁梓 林盛等凡有姓者 皆出自欽賜三十六姓者之後裔焉

 [口語訳]若大夫・金良、長史・蔡瀚、蔡廷美、都通事・鄭賦、梁梓、林盛など、おおよそ名字のあるものは、すべて、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫である。
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/06-05/00000001.gif
  http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1241191/1/vol08/ch/ch/06-05/00000002.gif
 このため、林盛も、中国皇帝から賜られた三十六姓の子孫、すなわち、閩人三十六姓であることは間違いない。都通事とは、通訳の階級で、若秀才→秀才→通事→副通事→都通事→中議大夫→正議大夫→紫金大夫と進む。



井上清説と原田禹雄説

 原田禹雄は「封舟の針路を指導したのも琉球の夥長であった」と書いているが、多くの場合、夥長も閩人三十六姓が担っていたので、陳侃使録の夷を琉球人と訳すのならば、「琉球の夥長」と書くことは誤訳か、そうでなくても、へたくそで誤解を与える訳と言えるだろう。
 冊封船の航海は閩人が担い、進貢・朝貢船の航海は閩人三十六姓が担っていた。どちらが、航路を熟知していたのかは、時代や、個々のケースによって異なるので、一概には言えない。
 陳侃使録によれば、冊封船に乗る閩人は航路をよく知らず、琉球に住む閩人三十六姓が航路を熟知していたことが分かる。冊封使は、毎回冊封の時に、冊封船を建造し、船員を雇い入れていたので、場合によっては、優秀な船員を雇えないこともあった。陳侃の雇い入れた船員が、航路を知らなかったとしても、閩人すべてが、航路の知識がなかったと考えることは、論理の飛躍である。

 『明世宗実録』嘉靖二十一(1542)年五月庚子条 には、中国人同士の殺人事件が記されている。福建出身の陳貴という者が、海禁を破って、大船で乗り出し、琉球にやってきて、蔡廷美に招き入れられた。二人とも、福建出身ということで、協力し合うことがあったのだろう。ところが、たまたま同じ時に、琉球に来ていた潮陽(福建の南に当たる)の海船に遇い、トラブルを起こし、殺人にまで発展した。
 こういう事件が起こっているので、この時代、福建や潮陽の船員が、琉球に来る航路を知っていたことは、間違いないだろう。

 航路を知っていたのは、閩人か閩人三十六姓のどちらかであるため、井上清は、これを中国人としたのだろう。(井上の本には、詳しいことが書かれていないので、確たることは言えないが)。これに対して、原田禹雄は閩人三十六姓は琉球人と考えているのだろう。
 

注と出典:
 [1]那覇市松山公園内にある久米村発祥の地碑には「蔡・毛・王・林・金・鄭・梁・陳・程・阮・魏・孫・紅・曾・楊・周・李」の17姓が刻まれている。
 中国福建省福州市台江区にある柔遠駅(琉球館)の移居琉球的閩人姓氏によれば「蔡・鄭・金・林・陳・毛・王・梁・阮・孫・曾・魏・程・紅・周・李・高・呉・瀋・田・馬・銭・宗・葉・范・楊・郭・翁・于・韓・賈・兪・宋・陶・伍・江」の36姓が書かれている。
 [2]岡本弘道「古琉球期の琉球王国における「海船」をめぐる諸相」 東アジア文化交渉研究 2008-03 p.221-248
 [3]上里隆史「海の王国・琉球」 洋泉社 (2012/2)、出典箇所 p90
   注)著者は閩人三十六姓のことを、華人と書いている。
 [4]都築晶子「蔡温の「国」の思想」 人文學報 (2002), 86: p167-190

参考  『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社
 久米三十六姓 :14世紀後半ごろ進貢貿易を遂行するために、福建から数次にわたって派遣された通訳・船頭などの職能集団。ただちに琉球に土着したわけではなく、中琉間を往復するうちに定住する。三十六姓は漠然とした数字。16世紀後半から東南アジアの貿易構造の変化などによって久米村の人口は減少し、蔡・鄭・林・梁・金姓が残存するのみとなるが、近世琉球では、首里王府による久米村籍への移入政策などによって新入唐栄人が急増する。


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