竹島問題参考書
池内敏/著 『竹島問題とは何か』 名古屋大学出版会 2012/12/20
池内敏教授の竹島問題研究の労作。内容の多くは、これまでに発表した論文をまとめたものではあるが、修正・加筆されている点も多いようだ。なかなかの量で、内容も高度。本の値段も高いので、個人で購入するのは、ちょっと躊躇してしまう。私は、近所の市立図書館にお願いして、購入してもらった。こういう本は、公立図書館で購入して、なるべく多くの人に読んでもらいたい。
池内氏は、竹島は日本固有の領土との、日本政府の説明には批判的であり、かといって、韓国の主張に同調しているわけではない。近代以前に、竹島が日本の領土であったとか、韓国の領土であったとかする、両国の主張をともに否定する。
本書は、3部構成になっている。第1部では、近代以前に竹島が日本固有の領土だったとの日本の主張を厳密な考証に基づいて否定する。第2部では、同じく、韓国の主張を否定する。第3部では、20世紀以降の竹島の話題。
日本の竹島領有論を否定した部分は、厳密・詳細である。
1600年代に書かれた、隠州視聴合記の国代記には、次の記述がある。 『隠州の北西には、無人島の竹島・松島があって、そこからは朝鮮が見える。このため、日本の北西は、此州が境界である。(ちょっと意訳している)』 此州とは、普通に読めば、隠州のことだろうけれど、州を島の意味に捉えて、竹島・松島が日本の境界の地であると読むる人もいる。池内氏は、隠州視聴合記全体の州・島の用例を詳細に検討し、此州は隠州の意味であることを実証した。この部分は、大西俊輝氏の研究と類似しているように思う。
また、1877年の太政官指令 『竹島外一島は日本には関係ない(ちょっと意訳している)』 との記述の、外一島は現・竹島であることを、多数の資料をもとに、詳細な論考で、説明している。
このように、20世紀以前に、現・竹島は日本の領土ではなかったと説明しているが、池内氏の、日本による竹島領有論を論駁する部分は、厳密・詳細である。これに対して、韓国による竹島韓国領論を論駁する点は厳密さに欠けるように感じる。韓国との論争が少ないのだろうか。
1693年、鬱陵島に出漁していた安龍福は日本人漁民に捉えられ、鳥取藩の取り調べを受けた後、対馬経由で帰国した。この事件をきっかけに、鬱陵島は朝鮮の領土であって、日本の領土でないことが確定する。安龍福は1696年にも日本にやってくる。この時、帰国後、鬱陵島・竹島は朝鮮の領土であると日本人に言ったと説明しているため、現在、韓国では、安龍福を現・竹島を守った英雄として評価している。
1696年の安龍福供述は、どこまでが事実で、どこがホラ話なのか、怪しいものであるが、この件に関する、池内氏の説明は良く分からない。
安龍福が、鬱陵島・竹島が記載された朝鮮地図を持参して、日本の役人に説明したことは、日本の資料からも確かなことだ。領土のことを版図ともいうが、これは元々、地図や戸籍に書かれている範囲の意味なので、朝鮮全図に記載された範囲を朝鮮の領土と考えるのは自然なことだ。本書第6章では、地図に記載があるからといって、領有の証拠にはならないことが説明されているが、これは、現代の話で、現代の国際法上の証拠について、安龍福が知っているはずもない。
池内氏は 『村上家文書の内容全体の分析と、他資料との比較検討からすれば、安龍福の訴訟目的が「竹島と松島を朝鮮の領土として主張する」などということろになかったことは明らかである。(P206)』 としている。安龍福は民間人なので、領土の領有権交渉をする立場にないから、安龍福の主たる目的が領有主張でなかったことは正しいだろう。しかし、従たる目的が領有権主張でないとするならば、池内論文の指摘は不十分だ。普通に考えたら、安龍福の目的は、鳥取藩なり対馬藩から金品が欲しかったのだろう。そのためには、1693年に鬱稜島で日本人に連行されたことは、日本側の不正でなくてはならず、そのために、鬱陵島・竹島が朝鮮領である事を主張することは、理にかなった行動だ。
ところで、池内氏は、 『この海域(鬱陵島・竹島付近)で、日本人と朝鮮人が出会うのは、安龍福事件の生じる1690年代まで待たなければならない(P226)』 と記しているが、これは事実だろうか、単なる憶測だろうか。もちろん、1690年代以前に出会ったことを示す資料はないので、このような推測をする人がいることは理解できる。安龍福事件は、両国人が出会ってトラブルが生じたものであり、トラブルが生じない限り、お互いに、見てみぬフリをするなり、密貿易をするなりして、当座の利益を図るのが普通ではないだろうか。実際、日本人からすれば、安を連行したために、逆に、渡海が禁止されることになり、不利益をこうむっている。
P239の記述はいただけない。18世紀後半になると、朝鮮全図は実測に近い縮尺で書かれているが、鬱稜島・于山島の位置関係の縮尺が異なっていることを持って、この于山島は竹島では決してありえないと言い切っている。陸上の距離は、歩数や歩行時間で、かなり正確に把握することが出来るので、高度技術を用いなくても、実測に近い縮尺で書くことは可能だ。しかし、離島の場合は、三角測量技術か天体観測技術がなければ、正確に距離を求めることは出来ないので、陸地の距離が正確だからといって、離島の距離が正確に測定できることにはならない。日本地図でも、正保御国絵図では、蝦夷・千島の縮尺がでたらめだけれど、だからといって、描かれた島々が千島ではないと判断することは出来ないし、そのような主張をする人はいない。鬱稜島・于山島の位置関係をもとに、于山が竹島でないとするならば、当時、離島の測距技術がどのようなものであり、離島作図がどのような手法でなされていたのかを明らかにする必要がある。
1900年、大韓帝国勅令第41号では、鬱稜島と竹島石島を鬱郡の管轄地域とした。この中で、竹島とは鬱稜島に隣接する竹嶼のことであるが、石島とは、現・竹島のことなのか、違う島のことなのか、議論がある。
池内氏は、この件に対していろいろと考察しているが、何を問題としているのか。
そもそも、日本では、地名の漢字は、あまりあてになるものではない。西上州・荒船山の最高峰はガイドブックによれば『京塚山』、途中の指導標では『行塚山』、山頂の表示では『経塚山』となっている。京・行・経では、字も違うし、読み方も若干異なるが、この程度のズレは、マイナーな地名にあっては、特段珍しいことではない。地元で言われていた名称を、当て字で書いたものだから、人によって字が異なったために、このようなことが起こった。
北アルプス白馬岳の名称の由来は面白い。この山は、春になると山腹に黒い馬の形の雪形が現れるが、これが代掻き馬に似ているものだから、代馬の意味でシロウマと呼んでいた。これに白馬の当て字が使われたために、白馬岳となり、最近ではハクバと読む人も多い。雪形は黒馬なのに、白馬になってしまった。(名称の由来が正確に実証されたわけではなく、一般にはこのように言われているという意味です。)
意味が分かっていながら、故意に、異なった漢字があてられたケースもある。大菩薩峠の南に石丸峠があるが、ここには、石摩羅(石でできた男根・ペニス)が祭られていたため、石摩羅峠と書くべきところを、摩羅ではみっともないので、石丸峠としたものである。なお、現在、峠から少し離れたところに、3代目石摩羅が置かれている。
北方領土の択捉島も、近藤重蔵が標柱を立てた時には『恵土呂府』と書かれていた。これが、現在のように『択捉』と書かれるようになったのは、いつのことなのだろう。
現在、韓国では、竹島のことを独島と呼んでいることは、疑いのない事実であり、石島が近似した音であるならば、付近に石島と思われる島がない以上、日本の地名の常識から判断した場合は、独島=石島と考えるのが、妥当な判断だろう。
ところで、日本にも『石島』がある。岡山、香川の県境の島で、岡山側からは通常『石島』、香川側からは通常『井島』であり、どちらも『イシマ』と読む。とかく、漢字表記はあてにならない。
さて、石島を漢字の意味を考えて、石のような島と解釈する人もあるようだ。地名の漢字は、当て字であることが多く、意味を詮索することは有意義でないことが多いが、地名の由来に詳しくない人が、漢字の意味を詮索したくなるのは、仕方ないだろう。
石島を石のような島と解釈する説に対して、池内氏は次のように書いている。
安龍福は1696年、欝陵島で出会った日本人を叱責し、逃げる日本人を追跡して子山島(于山島)に到った。この子山島(于山島)を安龍福は松島とも記載しており、当時日本で松島と呼んだ島は現在の竹島/独島のことだから、安龍福は竹島/独島をじかに見たことが確実である。そして安龍福は、追跡した日本人が「松島で釜を並べて魚を煮ていた」とも述べている(『粛宗実録』粛宗22年(1696)年9月25日条)。そこで人が煮炊きできるような場所が「石のような島」ではありえない。(P244)この文章、何を言っているのか、さっぱりわからない。