安龍福の供述と竹島問題

   
下條正男/著『安龍福の供述と竹島問題』島根県総務部総務課/ハーベスト出版 (2017/3)
  
 著者は島根県の竹島問題研究会座長を務める拓殖大学教授。このため、著者の主張は島根県のホームページやpdfファイルなどに公開されているものが多い。本書は30ページ余りの小冊子で、17世紀末に日本に来た安龍福の供述を解説するもの。無料で読める内容を超えるものではないので、本書をわざわざ購入する必要性は全くないだろう。
 安龍福の供述には、ほら話が含まれていることは確実だが、だからと言ってすべてが嘘だというわけでもない。このため、安龍福供述については、他の資料を基に、事実とそうでないことを分ける必要がある。しかし、本書は、そのようなことはせずに、一部に真実でないことがあるとあげつらうことによって、あたかもすべてが虚偽であるかのような印象操作をしているように感じられる。でも、それが著者の出版の目的なのだろうから、それはそれでも良いことだろう。
  
 しかし、不正確な言葉使いで、自説をごり押ししているように思える記述が散見される。
 2か所、指摘する。
  
 本書、P20に「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。村上家文書には「安龍福申候・・・竹嶋と朝鮮之間三十里竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候」とあるので、安龍福が日本で、鬱陵島と松島の間は五十里であったとしたことは正しいのだろう。 しかし、約200キロはどこから言えるのだろう。一里が何キロメートルであるのかは状況によって異なるので50里が200キロメートルと決めることはできない。 中近世日本では一里とは一定時間に進む距離の意味があったので、山地と平地では一里の距離は異なっていた。船行と陸行でも、一里の距離は異なっていた。隠州視聴合記や長久保赤水の地図における日本海の航路では、一里はおおよそ2キロメートル程度になっている。 一里が2キロメートルならば、50里は100キロメートル程度になり、鬱陵島と竹島の距離と大きな違いはない。当時の一里がどのように扱われたのかを説明することなしに、唐突に200キロとしている点は、まじめに歴史を見る態度とは思えない。
  
 P29には「安龍福は日本の漁民が松島に住んでいると証言しました。当時、竹島には人が住んでいたのでしょうか。」と書かれている。現代日本語で「住む」というと、そこに住民票を移して最低でも数年間住み続けることをいうかもしれない。しかし、漢文で有名な李白の詩の一節「両岸猿声啼不住」の「住」は現代日本語の「住む」という意味ではなくて「停止」するという意味である。また、現代中国語ではホテルに一泊することを「住宿」と言う。このように、当時、竹島に現代日本語の意味で人は住んではいなかったけれど、漢文や現代中国語の意味で、竹島に人が住んでいた可能性は十分にある。



竹島問題関連書籍のページへ   竹島問題のページへ    北方領土問題のページへ    尖閣問題のページへ