「一里」は何メートルだろうか。この問いに対して、「一里=約4000m(日本)」「一里=約500m(中国)」「一里=約400m(朝鮮)」とする見解がある。この見解は誤りではないが、事実はそう単純ではない。日本では、明治24年(1891年)に制定された度量衡法で、一里=36町=12,960尺と定められたため、一里=約4qとなったが、それ以前には様々な「里」が使われていた。律令時代は「一里=5町」あるいは「一里=6町」だったので、一里はおよそ500m〜700mだった。鎌倉の七里ガ浜や千葉の九十九里浜などは、この一里で計算すると、おおよそ実際の距離になる。織田信長のころから一里=36町(約4q)が使われるようになり、徐々に広まっていった。しかし、一里は一定時間に歩く距離と定められることがあり、山間部の一里は短く、平坦な道では一里が長くなる傾向があった。
このように、一里の長さは時代・地域・地形・陸上か海上かなどで異なっていたので、固定的に「一里=何メートル」とすることはできない。
竹島問題を考える上で、中世において竹島への距離をどのように把握していたのかを知ることは重要だ。以下に示す通り、この地域の海上交通では「一里=約2km」のことが多いようだ。
「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」(注)安龍福証言を書き留めたとされる「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」では、鬱陵島と竹島の距離は50里と当時考えられた里程と整合しているが、朝鮮と鬱陵島の距離は30里となっている。朝鮮-鬱陵島の距離は鬱陵島-竹島の距離の1.5倍なので75里としないと現実に合わない。安龍福が誤証言をしたのか、日本人が聞き取り間違いをしたのか、日本人が書き写すときに誤記載したのか、分からない。しかし、安龍福は鬱陵島で日本人に捕らえられて鳥取に連れてこられたことがあり、鬱陵島に渡っていたことは間違いないので、朝鮮-鬱陵島の距離を大きく間違えていたとは考えられない。朝鮮の領土であることを強調するために、朝鮮に近いように誇張した可能性もある。
安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋と申朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋御座候是ヲ竹ノ嶋と申由申候 則八道ノ図ニ記之所持仕候
松嶋ハ右同道之内子山(ソウサン)と申嶋御座候是ヲ松嶋と申由是も八道之図ニ記申候
当子三月十八日朝鮮国朝飯後ニ出船同日竹嶋ヘ着夕 夕飯給申候由申候
(途中省略)
五月十五日竹嶋出船同日松嶋江着同十六日松嶋ヲ出十八日之朝隠岐嶋之内、西村之礒ヘ着 同廿日ニ大久村江入津仕候由申候
(途中省略)
竹嶋と朝鮮之間三十里 竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候
『出典:島根県総務部 http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/takesima/chukanhoukoku/index.data/oboe-kaidoku.pdf(2017.12閲覧)』
(口語訳)
・安龍福が言うには竹島を竹の島と言い、朝鮮国・江原道東莱府の内に欝陵島という島があって、これを竹の島と言うそうです。(朝鮮の)「八道ノ図」に記載されています。
・松島は江原道の中に「子山(ソウサン)」という島があって、これを松島と言い、これも「八道ノ図」に記載されていると言っています。
・この年、三月十八日に朝鮮国を朝飯後に出船し、同日夕竹島に到着し、夕飯を食べたと言っています。
・五月十五日に竹島を出船し、同日松島へ着き、十六日には松島を出て、十八日の朝に隠岐嶋之内、西村の磯に着き、二〇日に大久村へ入津したと言っています。
・竹島と朝鮮の距離は30里、竹島と松島の距離は50里であると言っています。
隠州視聴合記(1667年)に以下の記述がある。
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
(概要)隠岐から美保関まで35里、赤崎浦まで40里、温泉津まで58里。松島(現・竹島)まで二日一夜、さらに一日で竹島(現・鬱陵島)がある。
隠岐―雲州美穂関 三十五里 実際は隠岐―美保関(島根県松江市) 65.5q(隠岐の起点は西ノ島町役場とする)
隠岐―泊州赤碕浦 四十里 実際は隠岐―赤崎(鳥取県琴浦町) 87.2q
隠岐―石州温泉津 五十八里 実際は隠岐―温泉津(島根県大田市) 124.8q
このため、隠州視聴合記では、一里≒2qとなる。また、竹島と鬱陵島間の距離は書かれていないが、一里≒2qならば、45里に相当する。
この日本全図には海路の里程が書かれている。
隠岐・島後−美保関 37里(実際は67q) ・・・1里≒1.8qに相当
新刻日本輿地路程全図に竹島と鬱陵島間の距離は書かれていないが、島後−美保関と同様に一里≒1.8qならば、50里に相当する。
(参考) 大隅−屋久島 20里(実際は66q) ・・・1里≒3.3qに相当
大隅−種子島 16里(実際は41q) ・・・1里≒2.5qに相当
明治になると、銅版による細密な地図が作られるようになり、世界地図と日本地図が数多く民間から出版された。本図はそのうちの一つで、地名をはじめとする詳細な情報が細かい字で書きこまれている。
本地図は、国土地理院の古地図コレクションで公開されている。(https://kochizu.gsi.go.jp/)
いくつかの海路には里程が書かれている。このうち、松江・隠岐には以下の記述がある。
津戸(隠岐の島町津戸)―諸喰(松江市美保関町諸喰) 37里(実際は67q) ・・・1里≒1.8qに相当
新撰日本全図に竹島と鬱陵島間の距離は書かれていないが、津戸−諸喰と同様に一里≒1.8qならば、50里に相当する。
以上まとめると次のようになる。
@1900年、韓国政府は鬱陵島の東南東(あるいは東北東)42里(朝鮮里?)の島を韓国の領土と定めた
A1877年、日本政府は鬱陵島の南東40里(日本里?)の島を日本の領土ではないと宣言した
B17世紀末に来航した「安龍福」は竹島と鬱陵島の距離は50里と言った
C竹島は鬱陵島の東南東48海里(一海里=1.85q)にある
D隠州視聴合記(1667年)では一里≒2qとなる。一里≒2qならば、竹島と鬱陵島間の距離は45里に相当する。
E石川流舟『本朝図鑑綱目』貞享4年(1687)刊では一里≒2qである。
F新刻日本輿地路程全図(1791)の島後−美保関は一里≒1.8qとなっている。一里≒1.8qならば、竹島と鬱陵島間の距離は50里に相当する。
G新撰日本全図(1875年 明治8年)の津戸―諸喰は一里≒1.8qとなっている。一里≒1.8qならば、竹島と鬱陵島間の距離は50里に相当する。
1877年に日本が領土で無いとした島、1900年に韓国が領土とした島、実際の現・竹島は、すべて、鬱稜島の東南東ないし南東方向40〜50里と一致している。また、17世紀に来航した朝鮮人の証言も、竹島と鬱陵島の距離を50里としている。里程は一致するが、1里が何キロメートルなのかは、時代・地域・陸と海などの状況によって変化するので、50里が何キロメートルに相当するのか分からない。
日本では、明治2年に1里=36町と統一されるまでは、様々な「里」が使われていた。「里」は距離の単位でなく、徒歩の旅にかかる労力を表す数字として使われたためである。(注) 近年、日本では1里≒4km、中国では1里≒0.5km、朝鮮では1里≒0.4kmと、10倍程度の違いが生じている。
(注)参考文献:石川英輔/著『ニッポンのサイズ』(淡交社 2003年)p105-107
1900年、韓国併合前の大韓帝国政府は勅令第41号で鬱陵島の"Taeha-dong"に郡庁を置き「鬱陵全島と竹島と石島」を管轄区域と定めた。ここで言う「竹島」とは、鬱稜島近傍にある"Jukdo"のことである。「石島」とは、現在の竹島であると思われるが、日本では石島は竹島でないとする主張が多い。
2008年2月22日の山陰中央新報WebNewsによると、大韓帝国時代の「皇城新聞」の1906年7月13日付の記事として、「郡所管の島は鬱陵島と竹島と石島。東西六十里、南北四十里」としている。
1906年3月27日、島根県官僚神西由太郎ら45人は風波を避けて鬱陵島に避難し、翌日28日に郡守を表敬訪問した。このとき、竹島を日本の領土に編入したことを伝えた。翌日、郡守が江原道庁に報告し善処を求めると、翌月、江原道庁は参政大臣に報告をあげた。江原道庁の報告書には、『鬱島郡守沈興沢報告書・・・本郡所属 独島 在於外洋百余里』『日本官吏・・・自言、独島今為日本領地(独島は日本の領地になったと、日本の官吏は言った)』と書かれている。
鬱陵島・石島を含む範囲が「東西六十里、南北四十里」なので、石島は鬱陵島の外洋百余里としている(注1)。60+40=100と言うことだ(注2)。鬱郡所属の島は、「鬱陵島・竹島・石島」なので、「本郡所属 独島 在於外洋百余里」が勅令第41号の石島のことであることは明らかだ。
もっとも、足し算をするまでもなく、鬱郡守が「本郡所属 独島」としているのだから、このとき独島が鬱郡に所属していたことは明らかで、鬱郡所属の島は勅令第41号で「鬱陵島・竹島・石島」と定められているのだから「独島=石島」以外にはありえない。
(注1)独島について鬱島郡守は『在於外洋百余里』と書いているので、どこから外洋百余里なのか判然としない。朝鮮半島から百里との解釈と、郡守の居る鬱陵島から百里との解釈がある。しかし、鬱陵島が朝鮮半島から100哩(350朝鮮里)なので、朝鮮半島から百里とする解釈には無理がある。
(注2)東西60里、南北40里ならば、直線距離で72里ではないかとの考えもあるだろう。ユーグリット距離だとそうなるが、数学的には、東西距離と南北距離を単純に加えたものを距離としても良い。
(参考)数学での「距離」の定義
集合Ωに対して、Ω×Ω→[0,∞)の関数dが以下の3つの条件(公理)を満たすとき、dを距離と言う。(以下、a,b,c∈Ωとする)
@d(a,b)=0 <=> a=b
Ad(a,b)=d(b,a)
Bd(a,b)≦d(a,c)+d(c,a)
1895年10月、日本公使三浦梧楼が朝鮮王后・閔妃を暗殺(閔妃事件/乙未事変) すると、朝鮮王・高宗は、1896年2月 〜1897年2月までロシア公使館に保護を求めて逃げ込んだ(露館播遷/俄館播遷)。この間、朝鮮内政の中心はロシア公使館で行われている。高宗がロシア公使館に移る以前にも、ロシアやイギリス公使館職員などが頻繁に高宗に面会して守っていた。
当時、ヨーロッパ諸国で、鬱陵島・竹島がどのように知られていたのかを示す地図として、1894-95年にイギリス・ロンドンで出版されたJohnsonの日本地図の一部を掲載する(地図をクリックすると拡大します)。
朝鮮半島沖合100哩に鬱陵島がMatsu-shimaの名前で記載され、およそ東60哩、南40哩の地点に、Liancourt Isの名前で竹島が記載されている。
ロシア公使館で執務が行われていた朝鮮政府が、このようなヨーロッパ地図を知っていたと考えるのは自然なことだ。
実際の鬱陵島と竹島の範囲は、東西60哩、南北20哩程度であるので、東西と南北の比率は3:1である。1800年代後半に出版されたMigeon(パリ)の中韓国図やStieler(ドイツ)の日中韓国図には正しく3:1の比率の位置に描かれている。しかし、Johnsonの日本図では3:2の位置になっているので、大韓帝国政府勅令第41号は、このような地図を参照したのだろう。
「石島」「独島」と漢字が違うののはなぜだろう。
日本にも瀬戸内海に「石島」があるが、「井島」とも書き、どちらの表記も正解だ。宮城県塩竈市は複雑だ。「塩竈」「塩釜」どちらでもよいとされているが、市の名前は「塩竈」、郵便局・警察署・駅名などは「塩釜」が使われることが多い。群馬県南西部の荒船山最高峰は「経塚山」「京塚山」「行塚山」と書く。京都の伏見は現在では「伏見」と書くけれど、明治時代は「伏見」「伏水」の両方があった。「函館」は幕末には「箱館」と表記されることが多かった。明治2年9月30日に蝦夷地が北海道に改称されるのに伴って「函館」に改称されたとする俗説があるが、実際には明治9年ごろまで両者は混用されている。このように、日本では地名の漢字が統一されていないことは珍しくない。
最終更新 2019.6