サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し日本国は独立を回復した。日本国の範囲は基本的には、この条約に示されている。
サンフランシスコ平和条約 第二条
(a)日本国は,朝鮮の独立を承認して,済州島,巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。
このように、日本国は、朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を喪失した。しかし、竹島については、条約の中に明示されておらず、日・韓いずれのものであるのか、不明である。日本、韓国共に自国に都合よく解釈している。
1946年1月29日のGHQ指令SCAPIN677では、竹島の日本国の施政権が停止されているので、この時期、米国は竹島が朝鮮に属すると判断していたと思われる。実際、1949年11月の米国平和条約草案までは、すべて、竹島を朝鮮の領土としている。
この状況が一変するのは1949年11月である。このとき、中華人民共和国が成立し、東西冷戦の中、日本国は米国陣営の最前線と位置づけられるに至った。この時期、朝鮮半島南部は米国の息のかかった大韓民国の支配下であったが、南北朝鮮対立の中、韓国は日本ほどには米国陣営の中で確固たる地位を占めているわけではなかった。このため、東西冷戦を考えたならば、なるべく多くの領土を日本に残しておいたほうが、米国としては何かと有利であった。実際、この時期には、済州島を日本領とする主張が米国にあったことが知られている。
竹島を日本の領土とする主張は、駐日政治顧問ウイリアム・J・シーボルトからの意見書が発端である。シーボルトがいかなる歴史的根拠によって、竹島を日本の領土と考えたのか、分かっていない。日本政府は、平和条約を締結するに当たって、米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。このうち、1947年6月には、「太平洋及び日本海小諸島」と題する文書を、米国に提出、日本の立場を説明している。この文書が、竹島日本領論をシーボルトが主張した根拠になっている可能性がある。ただし、この文書は、現在、日本政府によって非公開とされているため、詳しいことは分からない。
シーボルトは、竹島を日本領とした一方で、日本が放棄する領土範囲を厳密にするべきではないとの、意見であった。1950年8月の米国草案では、竹島のみならず、済州島にも言及されていない。領土範囲を明確にしないというシーボルトの主張が色濃く反映されている。
この時期、英国に於いても、平和条約草案が作られているが、英国草案では、国境は明確に示され、竹島は朝鮮領となっていた。1951年5月、米・英の交渉により、共同案が作成された。共同案は米国案が色濃く反映されており、英国案は影を潜めている。ただし、済州島、巨文島および欝陵島を朝鮮領と明示することは復活した。竹島には触れられていない。
米英共同の平和条約草案では、竹島には触れられていないが、この時期、米国の認識では、竹島を日本の領土にとどめるとの考えは明白である。1950年秋のオーストラリア政府の照会、1951年8月の韓国政府の照会にたいして、いずれの場合も、竹島が日本に保持される旨、回答があった。
平和条約が締結され、まだ、発効していない、1952年1月18日、韓国政府は李ラインを設定し、事実上、竹島を韓国の領土とした。このときは、平和条約が発効していないため、日本政府は竹島に対する施政権を停止された状態だったので、韓国の処置に対して、なんらの対抗処置をとることはできなかった。竹島を占領していた米国は、韓国の処置に対して、なんらの対抗処置を取っておらず、韓国が竹島を領有することを、事実上認めた。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
年月 | 項目 | 概要 | 竹島の扱い |
1943年11月 | カイロ宣言 | 朝鮮の独立を宣言 | − |
1943年12月 | テヘラン会談 | 朝鮮は当面、信託統治とする | − |
1944年末 | CAC文書(CAC334) | 米国国務省内で朝鮮処理問題が検討された。済州島・巨文島は朝鮮帰属とされた。 | − |
1945年2月 | ヤルタ会談 | 朝鮮は当面、信託統治とする | − |
1945年8月 | トルーマン、スターリン 秘密往復書簡 |
一般命令第一号の内容が検討・了承された | − |
1945年9月 | 一般命令第一号 | 朝鮮半島北緯38度以北はソ連の占領、38度以南は米国の占領とされた | − |
1945年12月 | モスクワ外相会談 | 朝鮮の5年以内の信託統治が定められ、共同委員会が設置された。この委員会は信託統治の方法で合意が得られず行き詰まる。 | − |
1946年1月29日 | SCAPIN677 | 日本の行政範囲が定められた。竹島・済州島・巨文島は日本の範囲から省かれた。 | 朝鮮領 |
1946年6月22日 | SCAPIN1033 | マッカーサーライン設定。 日本の漁業範囲から竹島近海が省かれた。 |
朝鮮領 |
1946年6月24日 | SWNCC文書 | SWNCC文書「旧日本支配下の委任統治領及び諸離小島の信託統治及び他の処理方法に関する方針」 この中で、竹島・済州島・巨文島を朝鮮の範囲とすることが明記されている。『朝鮮半島−カイロ宣言は、朝鮮の自由と独立を要求している。済州島、巨文島、欝陵島、竹島及び朝鮮のすべての沖合い小島は、歴史上且行政上朝鮮の一部で、主に朝鮮人が居住しており、朝鮮の一部として考慮されるべきである。』 |
朝鮮領 |
1947年3月 | 米国の平和条約草案 | 『日本国は、ここに朝鮮並びに済州島、巨文島、欝陵島、竹島を含む朝鮮のすべての沖合い小嶼島に対するすべての権利及び権原を放棄する』。文章中、竹島は『Liancourt Rocks(Takeshima)』 | 朝鮮領 |
1947年6月 | 日本政府、米国に 対して文書提出 |
日本政府「太平洋及び日本海小諸島」と題する文書を、米国に提出。日本政府の立場を説明している。ただし、この文書は非公開なので、内容は不明である。平和条約で竹島が明記されなかった決定的な原因となった可能性がある。 | 不明 |
1947年8月 | 極東委員会(11カ国) 対日講和会議に対する米国の平和条約草案 |
草案では、済州島、巨文島、欝陵島、竹島は朝鮮領となっている。 この草案は、対ソ柔軟であることを理由に、政策企画室(ジョウージ・ケナン室長)から激しい批判を受ける。また、極東委員会では、対日講和会議はソ連・中国の反対にあう。 |
朝鮮領 |
1947年11月 | 米国の平和条約草案 | 政策企画室の批判に答える形で、平和条約草案は修正されたが、朝鮮処理に関する変更はなかった。竹島は、朝鮮のものとされていた。 | 朝鮮領 |
1947年11月 | 国連総会 | 国連総会では、ソ連の反対を押し切って、朝鮮では総選挙を行い、その結果統一政権樹立を決定。 | − |
1948年1月 | 米国の平和条約草案 | 政策企画室の批判に答える形で、平和条約草案は再修正された。朝鮮処理に関する変更はなかった。竹島は、朝鮮のものとされていた。 | 朝鮮領 |
1948年5月 | 南朝鮮総選挙 | 国連総会に従って、南朝鮮では総選挙が行われ、その結果、南朝鮮に大韓民国を設立した。北朝鮮では選挙をボイコット。 | − |
1948年8月、9月 | 朝鮮独立(分断国家) | 5月の総選挙に基き、南朝鮮では8月に大韓民国が設立した。大韓民国が発足すると、北朝鮮では、9月、朝鮮民主主義人民共和国を設立した。 | − |
1949年10月 | 米国の平和条約草案 | 1948年1月草案を大幅に修正したもの。ただし、竹島には変更はなく、竹島は、朝鮮のものとされていた。 | 朝鮮領 |
1949年11月 | 米国の平和条約草案 | 1949年10月草案の構成が変更された。竹島には変更はなく、竹島は、朝鮮のものとされていた。 | 朝鮮領 |
1949年11月 | 中華人民共和国成立 | 中華人民共和国成立 | − |
1949年11月 | シーボルト意見書 | 1949年11月草案に対して、駐日政治顧問ウイリアム・J・シーボルトから意見書が出された。 シーボルト意見書では、日本が放棄する領土範囲を厳密にするべきではないこと、竹島を日本領とすることが提案されている。 |
日本領 |
1949年12月 | 米国の平和条約草案 | 領土条項で、日本が保持する諸島に竹島が加わった。 | 日本領 |
1950年6月 | 朝鮮戦争勃発 | 朝鮮戦争勃発 | − |
1950年8月 | 米国の平和条約草案 | 1950年4月、国務省顧問に就任したダレスの下で、これまでの草案に大幅な変更が加えられた。地図や緯度経度を示した国境線引きがなくなった。島名の列挙もなくなり、単に『朝鮮』の記述になっている。『竹島』は草案から消えた。 | 記載なし |
1950年9月 | 米国の平和条約草案 | 朝鮮に関しては、1950年8月草案と違いは無い。 | 記載なし |
1950年秋 | 国連総会 | 国連総会会期中、オーストラリア政府の照会にたいして、米国務省は、竹島が日本に保持される旨回答している。 | 日本領 |
1951年3月 | 米国の平和条約草案 | 1950年9月草案に手直しがなされているが、『竹島』は草案から消えている。 | 記載なし |
1951年4月 | 英国の平和条約草案 | 英国は対米交渉用に独自の平和条約草案を作成している。1951年2月に作成されたものを、3月の修正を経て、作成された。1951年4月英国の平和条約草案は、緯度経度を使って精密に領土を規定している。竹島は朝鮮の領土とされている。 | 朝鮮領 |
1951年5月 | 米英共同平和条約草案 | ほぼ、米国草案に添った形で、まとめられた。国境に対して、地図や緯度経度を示した線引きはなされていない。ただし、『朝鮮(済州島、巨文島および欝陵島を含む)』と島名列挙が復活した。竹島に対する言及はない。 | 記載なし |
1951年6月 | 米英共同平和条約草案 | 5月の草案と大きな違いは無い | 記載なし |
1951年8月10日 | ラスク覚書 | 米英共同平和条約草案に対する大韓民国政府意見書に対して、ディーン・ラスク国務次官補から、韓国大使に対して米国覚書が渡された。 米国の得た情報によれば、竹島は朝鮮の一部として取り扱われたことはなく、1905年から島根県の管轄下にあり、また、かつて、朝鮮により領土主張がなされたとは思えない、と回答している。 |
日本領 |
1951年9月 | サンフランシスコ講和会議 | サンフランシスコ講和会議 | 記載なし |
1952年1月18日 | 李ライン | マッカーサーラインを引き継ぐ形で、李ラインを設定。竹島を韓国の領土に含める。 この時期、日本は、竹島の施政権が停止されていたので、竹島に対してなんらの行動をとる権限はなかった。また、GHQは韓国の領土宣言に対して、なんらの対処をしていない。 注)マッカーサーラインは4月25日に廃止された |
朝鮮領 |
1952年4月28日 | 平和条約発効 | 平和条約が発効し、日本の占領は終了した | 記載なし |
参考文献
『サンフランシスコ平和条約の盲点』 原貴美恵/著 渓水社(2006.6.10)