竹島問題−やさしい竹島問題のはなし−竹島の領土問題を知っていますか?
注意書き やさしい竹島問題のはなし 本文はこちら
ここは、やさしい竹島問題のはなしの注意書きです。むずかしい話なので、ふつうは読む必要ありません。
(注意)韓国と朝鮮
「韓国」「朝鮮」は、同じように使用される。半島名も「朝鮮半島」「韓半島」のどちらも使用される。
1897年、これまでの「朝鮮」を改めて、「大韓帝国」となったが、1910年に日本の植民地となり、大韓帝国は消滅し、日本の植民地時代は朝鮮と言われた。日本から解放された後、南は「大韓民国」、北は「朝鮮民主主義人民共和国」と、それぞれ韓国・朝鮮を使用している。
(注1) 韓国併合
1905年、第二次日韓協約により、韓国の外交権が日本に奪われた。
1907年に韓国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約によって大日本帝国に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも、具体的な成果は得られなかった。この後、高宗は伊藤博文によって退位させられた。こうして、韓国政府からは、日本の命令に従わないものは排除された。
1910年、日本は韓国に「韓国併合ニ関スル条約」を締結させ、韓国は日本の植民地になった。
(注2) カイロ宣言とポツダム宣言
1943年12月、アメリカ大統領・ルーズベルト、イギリス首相・チャーチル、中国大元帥・蒋介石は日本との戦争目的などを示したカイロ宣言を発表した。この中で、日本が貪欲暴虐によって略取した地から、日本の勢力が駆逐されることと、朝鮮は独立するものとされた。
『・・・all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria,
Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China.Japan
will also be expelled from all other territories which she has taken by
violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement
of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become
free and independent.
満州、台湾、及び、澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること。日本国は又暴力及び貪慾に依り日本国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意しやがて朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す。』
1945年7月、アメリカ、イギリス、ソ連、中国は日本に対してポツダム宣言を発し、日本の降伏を勧告した。
ポツダム宣言第8条では以下のようにカイロ宣言の実施と日本の領域が指定された。
『The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese
sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu,
Shikoku and such minor islands as we determine.
カイロ宣言の条項は履行されるべく、又、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我等の決定する諸小島に局限せらるべし』
(注3) アメリカ占領統治
日本占領の最高機関は連合国が設置した極東委員会である。実際には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領統治した。
(注4) SCAPIN-677 SCAPIN-1033
1946年1月、GHQ指令「一定の遠隔領域の日本からの政治的・行政的分離(SCAPIN-677)」により、日本国外での、国家公務員及び使用人その他すべての者に対して、政治的もしくは行政的権限の行使または、それを試みることを中止された。この命令で、鬱陵島、竹島、済州島は日本国外とされた。
1946年6月、GHQ指令「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する件(SCAPIN-1033)」により、日本船舶と乗員の竹島周辺12海里への接近および竹島への接触が禁止された。
(注5) 日本国との平和条約
1951年9月8日署名、1952年4月28日発効の日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ条約)により、日本の占領統治は終了した。しかし、この条約にはソ連・中国・韓国などは約定していなかったので、これらの国とは個別に国交を回復する必要があった。
(注6) 竹島の名称
竹島の西島は男島、東島は女島とも呼ばれる。
2008年2月に外務省が発行したパンフレット「竹島 10のポイント」の英語版には「West Island」「East Island」とある。固有名詞を英語でいう場合は、意味を翻訳することはあり得ないので、もし外務省のパンフレットが正しいのならば、「西島」「東島」は島の名称ではなくて、単に、「西の方にある島」「東の方にある島」ということになる。
(注7) 日本政府の誤り
外務省条約局長・川上健三は、1966年に出版した本の中で、鬱陵島の海岸付近から竹島が見えないことと、山に登ることは困難だったため竹島は見えないと説明した。実際に、海岸付近から竹島が見えないが、一時間程度山登りをすれば竹島が見える場所は多いので、川上健三の「山に登ることは困難」との主張は、誤であることは明らかだった。しかし、日本では、しばらくの間、川上説が信じられていた。2005年ごろになると、鬱陵島から竹島を撮影した写真がネット上に載せられるようになり、日本でも川上説が誤りであることが知られるようになった。
鬱陵島と竹島の距離は88qだが、日本の外務省は92qとしていた。2009年2月に、外務省が発行したパンフレット「竹島問題を理解する10のポイント」や、2009年10月以降に島根県が発行したパンフレット「竹島 かえれ島と海」には92qと書かれていた。
(注8) 竹島あて郵便
日本の郵便制度では北方領土(北方諸島)宛ての郵便は外国郵便のヨーロッパ(第三地帯)としている。
竹島あての郵便には特別の規定はない。
(注9) 二ホンアシカの剥製
島根県立三瓶自然館サヒメルにはオスの成獣1体を含む3体の二ホンアシカ剥製が展示されている。このほか、島根県立しまね海洋館アクアスなどにも二ホンアシカ剥製がある。島根県外では大阪府天王寺動物園に3体の剥製など、大阪府に数体の剥製がある。さらに、オランダ・ライデン博物館には3体(シーボルト標本)の剥製がある。
(注A) 鳥取藩
1618年(あるいは1625年)、鳥取藩伯耆国米子の町人、大谷甚吉・村川市兵衛は鳥取藩主を通じて、幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、毎年1回の割合で交代で鬱陵島で漁・猟などをした。
1692年・1695年に鬱陵島で漁をしていた韓国人と出会ったのも、鳥取藩・米子の町人、大谷家・村川家の者である。
(注B) 竹島渡海と松島
米子の町人、大谷家・村川家は、鬱陵島への渡海免許を得ていたため、途中の航路中にある竹島にも立ち寄って漁をすることがあった。
鬱陵島が韓国の領土であることが決すると、鬱陵島渡海免許は取り消しになった。その後は竹島に渡海することもなくなったため、新たに竹島渡海免許を得ることもなかった。
(注C) 地名の変更
マイナーな地名が入れ替わったり、漢字が変わったりすることは珍しいことではない。日本第二の高峰・北岳を含む甲斐白峰三山は、北から「北岳」「間の岳」「農鳥岳」であるが、かつては「白峰岳」「農鳥岳」「別当台」と呼ばれていたようだ。
(注D) 竹島と松島
江戸時代、日本では鬱陵島を竹島と呼び、竹島を松島と呼んでいた。明治になると、両島の呼び名は混乱している。1867年勝海舟図「大日本沿海略図」では、鬱陵島を松島、竹島をリエンコルトロックスとし、1880年軍艦天城の報告では鬱陵島を松島としている。一方、1877年太政官指令に先立つ島根県伺い書では、江戸時代と同じ、鬱陵島が竹島で竹島が松島となっている。
韓国では両島は、武陵・羽陵・鬱陵・于山などと書かれていた。「陵」は山とほぼ同義なので、島の名前の固有部分は「武」「羽」「于」「鬱」である。中近世の韓国語でこれらの漢字をどのように発音したのかは知らないが、現代中国語では、これら4つの漢字はすべて「ウー」「ウ」と発音する。このため、中近世の韓国で鬱陵島と竹島はどちらも「ウー」のように呼ばれていたことは確かだろう。両島をどの程度区別していたのかはわからない。
1696年に隠岐の島を経由して鳥取に来航した朝鮮人・安龍福は、鬱陵島を「欝陵島」、竹島を「于山」と区別していた。(当時、日本で書き残された覚書には「于山」ではなく「子山」と書かれているが誤記と思われる。)
(参考)
現代中国語では「武」はWu(第3声)、「羽」「于」「宇」はYu(第3声)、「鬱」はYu(第4声)。
漢文の韻では、「武」「羽」「宇」は上麌、「于」は平虞、「鬱」は入物。
(注E) 閔妃
閔妃は韓国王高宗の正妻のため、王の妾を意味する「妃」ではなく、正妻を意味する「王后」だった。王后を暗殺した日本公使・三浦梧楼は韓国王に対して王后を妾に貶める勅令に署名をさせようとしたが、韓国王が強硬に署名を拒絶したため、三浦梧楼は朝鮮王の署名がないまま、勅令をだしたことにして、「閔妃」と呼ばせた。このため、日本では「閔妃」の呼称が定着した。
現在、韓国では、諡号の「明成皇后」と呼ばれることが多い。現在、景福宮には明成皇后殉国崇慕碑が建てられている。
(注F) 閔妃暗殺事件(乙未事変)
1895年、在朝鮮日本公使三浦梧楼は杉村溶書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼宮内府顧問官らと協議して、閔妃を暗殺し、親日政権樹立を計画した。8日早朝、訓練隊、日本軍守備隊、日本警察官、日本人新聞記者・壮士らを動員して、この計画を実行した。殺害後、遺体を裸にして、性器を検査した後、油を注いで遺体を焼却した。
この暴挙は外国人らにより目撃され、強い非難と嫌悪を浴びた。このため、日本政府は関係者を召喚して、軍法会議・裁判にかけ、証拠不十分で全員を無罪とした。
(注G) 露館播遷(俄館播遷)
1895年10月8日、日本公使三浦梧楼らは朝鮮王后を暗殺した(閔妃暗殺事件)。この結果、朝鮮王宮は日本の支配することとなり、朝鮮王・高宗は暗殺される恐怖におびえた。このため、高宗の食事はアメリカ、イギリス、ロシアなどの公使館から鍵付きの箱に入れて届けられた。
1896年2月11日、高宗は息子を連れて女官に扮して、ロシア公使館に逃げ込んだ。身の安全が確保された高宗は、勅令で、日本傀儡政府大臣を解任し、新政府大臣を任命した。
ロシア公使館による国政は1年間続いた。1897年2月20日、高宗は王宮に帰還した。
(注H) 旅順の戦い
1904年8月19日に始まった、日露戦争中最大の激戦である「旅順の戦い」は、1905年1月1日、日本の勝利で終結した。
(注I) 鬱島郡守
1900年、韓国併合前の大韓帝国政府は勅令第41号で鬱陵島の"Taeha-dong"に郡庁を置き「鬱陵全島と竹島と石島」を管轄区域と定めた。ここで言う「竹島」とは、鬱陵島近傍にある"Jukdo"のことである。「石島」とは、現在の竹島であると思われるが、日本では石島は竹島でないとする主張が多い。
1906年3月27日、島根県官僚神西由太郎ら45人は風波を避けて鬱陵島に避難し、翌日28日に郡守を表敬訪問した。このとき、竹島を日本の領土に編入したことを伝えた。翌日、郡守が江原道庁に報告し善処を求めると、翌月、江原道庁は参政大臣に報告をあげた。江原道庁の報告書には、『鬱島郡守沈興沢報告書・・・本郡所属 独島 在於外洋百余里』『日本官吏・・・自言、独島今為日本領地(独島は日本の領地になったと、日本の官吏は言った)』と書かれている。鬱郡守が「本郡所属 独島」としているのだから、このとき独島が鬱郡に所属していたことは明らかで、鬱郡所属の島は勅令第41号で「鬱陵島・竹島・石島」と定められているのだから「独島=石島」以外にはありえない。
(注J) 国際司法裁判所
サンフランシスコ条約第二十二条で、この条約の解釈又は実施に関する紛争が生じたときは国際司法裁判所に付託するように定められている。このため、サンフランシスコ条約の約定国との間で戦後処理に関する領土問題が生じたときは国際司法裁判所で解決する。
しかし、ソ連・韓国・中国はサンフランシスコ条約の約定国ではないので、領土問題は紛争当事国の一致する方法で解決しなくてはならない。
(注K) 李ライン
日本が敗戦して韓国は日本から解放され、別の国になったため、両国の間には国境が必要になる。GHQは鬱陵島・竹島を韓国に組み入れ、日本海には両国の国境線を引いた。マッカーサーラインという。
1952年4月28日にサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)が発効し日本が独立する3日前、マッカーサーラインは廃止された。本来、国境線は平和条約によって決められるものであるが、韓国はサンフランシスコ条約の約定国ではなく、日韓の国境は決められなかったので、平和条約発効3か月に、韓国は、マッカーサーラインを引き継ぐ形で「李ライン」を設定した。
(注L) 日韓国交回復
1965年、日本と韓国は基本条約を締結し、国交を回復した。国交回復の時に領土問題を解決することが理想であるが、この時、それはできずに、日本から竹島問題を提起することなく、韓国の実効支配を黙認した。
このとき「日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文 」が交わされ、両国間の紛争解決は、「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする」と定められた。
(2019/09)
最終更新 2017/5