やさしい竹島問題の話・・・竹島の領土問題を知っていますか
(注意)
現在、竹島(独島)は韓国が支配しているけれど、日本が領有権を主張し、韓国の支配に抗議しています。竹島(独島)問題を、優秀な小学生ならば理解できるように、やさしく書きました。このため、用語の使い方等、厳密さに欠けるところがあります。表現に正確さを欠くところは注意書きをご覧ください。
竹島の領土問題とはどのようなことですか?
竹島は日本の隠岐島と韓国の鬱陵島の間にある島です。韓国は「竹島は韓国の領土である」として、韓国が竹島を支配しています。韓国の国境警備隊が駐屯して、韓国の領土を守っています。しかし、日本は「竹島は日本の領土である」と韓国に抗議しています。日本では、島根県に属するとしていますが、島根県の職員が竹島に行って行政をすることはできません。
明治時代、韓国は日本の植民地になったので(注1)、この時以降、竹島が日本のものなのか、韓国のものなのかは、どちらでもよいことでした。1945年に日本が敗戦すると、これまで日本が暴虐や貪欲によって奪い取った領土は全て返すことになり、韓国は日本から独立しました(注2)。そして、日本はアメリカの占領統治になりました(注3)。アメリカは日本人が竹島に行くことを禁止したため(注4)、竹島は韓国が支配するようになりました。アメリカによる日本の占領統治は7年で終了しました(注5)が、その後も竹島は韓国が支配しています。
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2012年、イ・ミョンバク大統領は竹島に上陸し、竹島は韓国固有の領土であると改めて宣言した |
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竹島を警備する韓国・国境警備隊の施設 |
竹島を警備する韓国の国境警備隊員 |
竹島はどこにあってどんなところですか?
竹島は、日本海にある岩でできた小さい島です。一つの島ではなくて、西島・東島(注6)の2つの島と、50余りの岩の集まりです。西島の面積は0.09平方キロメートルで、これは神奈川県・江ノ島の4分の1の大きさです。東島はさらに小さくて、面積0.07平方キロメートルです。
竹島は韓国・鬱陵島の東南東88㎞にあります。島根県の隠岐島からは158㎞離れています。
天気が良くて空気が澄んだ時は鬱陵島から竹島を見ることができますが、隠岐島からは遠いので見えません。
竹島は、このように韓国に近く、日本からは遠いのですが、これでは日本の主張が正しいと思わない人もいるかもしれないので、日本では、「鬱陵島から竹島は見えない」「鬱陵島から92㎞離れている」などと誤った主張がされることがありました。92㎞でも88㎞でもあまり違わないような気もしますが(注7)。
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西島
険しい岩の島 |
東島
国境警備隊の施設など、多くは東島にある |
竹島に人は住んでいるの?竹島に行けるの?竹島に手紙は出せるの?
竹島は岩でできた小さい島なので人が住むのにあまり適していません。現在、竹島の住民は全員が韓国人で、
金辛烈さんのほか、国境警備隊員が35人ほど、灯台管理員が2人住んでいます(2019.3現在)。また、年間20万人ほどの観光客が訪れています。
鬱陵島から竹島に行くフェリーが就航しているので、鬱陵島でチケットを買って竹島に行くことが可能です。ただし、竹島行きのフェリーは韓国人に人気で、売り切れのことも多く、予約をしていないと買えないかもしれません。
なお、日本政府は、日本国民に対して、韓国の手続きで竹島に行かないようにと言っています。日本人が韓国の手続きで竹島に上陸すると、竹島に対する韓国の領有権を認めたと誤解される恐れがあるからだそうです。
(フェリーで竹島をおとずれた観光客)
竹島には住んでいる人がいるので、この人に手紙を出すことは可能です。竹島の住所は韓国なので、日本から手紙を出すときは、韓国あての国際郵便になります(注8)。日本の国内郵便では配達されません。
日本の乱獲で絶滅した二ホンアシカ
竹島には、かつて二ホンアシカが繁殖していましたが、日本の乱獲が主な原因で絶滅しました。
二ホンアシカは、江戸時代末期には、3~5万頭が、宮崎県や伊豆諸島など、日本近海に広く生息していました。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、乱獲のため激減しました。最大の繁殖地だった竹島では、1904年から8年間に、14000頭が捕殺され、皮革製品・油・肥料などに利用された結果、明治末期には大幅に個体数を減らしました。日本が敗戦すると竹島は日本の領土ではなくなったため、日本人による乱獲はなくなりましたが、1950年には、竹島のニホンアシカは、すでに数十~数百頭にまで激減していました。さらに、1950年代後期になると、日本の高度経済成長のため、近海は海洋汚染にさらされ、ニホンアシカの生息環境は悪化しました。1975年に竹島で目撃されたのを最後に目撃報告はないので、すでに絶滅したものと推定されています。
島根県の博物館などに、二ホンアシカの剥製が残されています。写真は島根県立三瓶自然館サヒメルのニホンアシカ剥製(注9)。
竹島問題を理解するためには、歴史的経緯を知る必要があります。
江戸時代の竹島
江戸時代の1620年ごろから鳥取県の漁師が鬱陵島で漁をすることがありました。竹島は鬱陵島に行く途中にあるので、立ち寄って漁をすることがありました。1692年・1695年に鬱陵島で漁をしていた韓国人と出会って、もめごとが起こりました(注A)。このとき、幕府は鳥取藩のものかを鳥取藩に問い合わせたところ、鬱陵島・竹島はどちらも鳥取藩のものではないとの回答だったため、鬱陵島は韓国の領土であることが決定しました。また、日本人は鬱陵島に行かないことになりました。鳥取県の漁師が竹島で漁をすることもなくなりました(注B)。
竹嶋之書付
鳥取藩が、幕府に提出した鬱陵島渡海に関する記録の綴り。
1695(元禄8)年、幕府から鬱陵島の帰属について問い合わせがあり、鳥取藩は、鬱陵島と竹島が鳥取藩に帰属しないと回答をしている。
(左の写真は鳥取県立博物館展示)
明治はじめごろの竹島
明治になると、日本政府は全国の地籍調査をしました。明治9年(1876年)10月、島根県は「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と題する伺文書を内務省に提出しました。その内容は、隠岐の彼方にある「竹島外一島」を島根県の地籍に入れるかどうかを、たずねるものでした。日本でも韓国でも、マイナーな地名が入れ替わることや、少し変わることは多いのですが(注C)、この伺文書で「竹島」とあるのは鬱陵島のことで、「外一島」は付属地図から現在の竹島のこと(注D)でした。これに対して、日本政府はこれらの島は日本の領土ではないとの結論だったので、島根県は鬱陵島と竹島を地籍に入れませんでした。
日清・日露戦争
1894年(明治27年)7月から1895年4月、韓国支配をめぐる対立から、日本は中国と戦争をしました。日清戦争といいます。この戦争は日本が勝ったので、韓国を日本が支配することになりました。しかし、これに反発した韓国王府はロシアに接近して日本の影響を減らそうとしました。これに対して、
日本公使・三浦梧楼は韓国王后(皇后陛下)(注E)を暗殺し、韓国王府を日本軍が支配しました(注F)。日本軍により、自分や子供も殺されると恐怖を感じた韓国王は、ロシア公使館に逃げ込みました(注G)。韓国王は自分の安全が確保されると、韓国王府から日本の勢力を追放しました。このため、韓国を軍事支配しようとした日本の目論見は、この時は失敗に終わりました。
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韓国王后と王
本人の写真ではなくて、映画です。 |
朝鮮王后を暗殺した三浦梧楼の墓 |
1904年(明治37年)2月から1905年9月、韓国・満州の支配をめぐる対立から、日本はロシアと戦争をしました。
日露戦争で日本の勝利が濃厚になる(注H)と、1905年2月に、日本は竹島を日本の領土にして島根県に編入しました。日本が日露戦争に勝利した翌年の1906年3月、島根県の職員が、竹島が日本の領土になったと、鬱陵島郡守に伝えると、鬱陵島郡守は、竹島は韓国の領土であるとして日本に抗議しました(注I)。しかし、この時、韓国は日本が支配していたので、韓国の抗議を日本政府は取り合いませんでした。1910年、日本は正式に韓国を植民地としたので、竹島が日本の領土なのか韓国の領土なのか、そういうことは、どうでもよい問題になりました。
日本の敗戦
第2次世界大戦は、日本の敗戦で終結しました。1945年(昭和20年)9月2日、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・中国などに降伏した結果、日本は連合国(GHQ)に占領され、日本が貪欲や暴虐によって奪い取った領土は日本のものではなくなり、韓国は日本の支配から解放されました(注2)。
日本を占領したGHQは、竹島を日本の領土から除外し、日本の漁民が竹島近海で漁をすることを禁止しました(注4)。この結果、竹島周辺は韓国漁民が漁をする海域となりました。
1952年、サンフランシスコ条約が成立し、日本は独立を果たします。このとき、韓国・台湾・千島・樺太などは日本の領土でないことが決定しました。それ以外は、独立国の常識として、自分の国の領土は自分で決めること、周辺国と主張がかち合う場合は交渉により決めることとなりました(注J)。竹島はこれまで通り韓国が実効支配を続けていました(注K)が、この時は韓国とは国交がないことから、日本は交渉ができませんでした。
日韓交回復
1965年(昭和40年)日本と韓国は国交を回復しました。このとき竹島は「解決せざるをもって、解決したものとみなす」との了解があり(注L)、韓国の実効支配が継続しました。
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最終更新 2020/11