北方領土問題参考書
田久保忠衛氏の著書『日本の領土問題(PHP研究所 2007.4.2発行)』
著者は、新しい歴史教科書をつくる会 理事。お読みになることを推奨しません。
北方四島・竹島・尖閣等、日本の領土問題を扱っています。
この本は、1999年にPHP研究所から出版された本に加筆したものです。前書に比べて、若干のデータは追加変更されていますが、本の内容は、おおむね、前書と同じです。
1992年、ソ連崩壊の頃、ソ連経済は大混乱しました。このとき、北方四島は、ソ連のヨーロッパ部に比べても、更に混乱し、経済は苦境に陥りました。前書が出版された頃は、ロシア社会もだいぶ安定し、北方四島も、平静を取り戻しつつありましたが、前書では、そのことに触れられておらず、若干時代遅れの記述の感がありました。その後、10年近くたち、その間、ロシアの主要輸出産品である原油が高騰し、そのため、ロシア経済は大きく好転しました。北方四島の経済も、かなり好転しています。
本書は、そのような事実に全く触れられておらず、相変わらずソ連崩壊期の混乱状態が今に続いているかのような記述になっています。もともと、内容が貧弱な上に、古い知識そのままであるため、この本を読んでも何も得ることはないでしょう。北方領土問題に関しては、外務省国内広報課が無料で配布している『われらの北方領土』を読んだほうが、良いでしょう。
竹島問題に関して言えば、最近、竹島問題を解説した、外務省のホームページが大幅に改訂されました。この本を読むぐらいならば、外務省のホームページを読んだほうがよいでしょう。
もう少し、内容に踏み込んでみます。ちょっと信じられないような、記述があります。少し長くなりますが、引用します。
『日露国境交渉史』−木村汎著・中公新書−によれば、千島への探検は一七一一年に始まっており、その一人がコサックのコズイレフスキーで、千島列島の北端にあるシュムシュ島、パラムシル島を調査し、そこにいた南千島のアイヌ人から各島の知識を得ている。以来、長らくロシア人の千島南下の記録はなく、一八○○年代に至っても北方四島への接近は見られない。
ピョートル大帝は日本人の漂流民などから東方への情報を得て関心を持ったが、ペテルブルグから見て千島方面は遥か彼方の遠い地であるうえに、欧州での政策に追われていたので、コズイレフスキーの千島探検以降は積極的に人を派遣するまでには至らなかった。
エカテリーナ女帝の時代に変わって、日本に通商を求めるため派遣されたのがラックスマンの率いる使節である。一行は一七九二年に北海道根室に到着して交渉を要求したが、幕府は鎖国中のため長崎以外では交渉しないと断り、受け入れを拒否した。
一八〇三年になってアレクサンドル一世は、レザーノフに親書を託し公式に使節団を送ったが、一行は長崎に到着したにもかかわらず、上陸は認められなかった。この対応に怒ったレザーノフは帰路、部下に命じて樺太と千島の日本人を襲撃し、勤番所や集落を焼き討ちにした。(P77)
この記述を読むと、ロシア人の千島南下・北方四島への接近は、一八〇三年以降の樺太と千島の襲撃までなかったことになってしまいます。そこで、『木村汎著 日露国境交渉史』を調べてみると、「1830年代になっても、ロシア人の千島南下は北部千島の数島に限られ・・・(P22)」と書かれています。
しかし、木村の本には、1740年のシパンベルクの航海、1771年のべニョフスキーの警告、1790年の最上徳内のロシア人接触の記述、1792年の大黒屋光太夫の帰国、等、1740年以降の千島南下の様子が記載されており、「1830年代になっても」は1730年代のミスプリントであることが容易に分かるでしょう。実際、田久保も、1803年のレザーノフフの襲撃を記しているのだから、木村の本にある「1830年代になっても」の記述が、単純なミスであることは、分かっているはずです。
分かっていながら、さらに、それをそのまま引用せずに、1803年のレザーノフフの襲撃と矛盾しないように、「1830年代になっても」を「一八○○年代に至っても」と書き換えているなど、…(書いていて、バカらしくなってきたので、以下省略)