北方領土問題参考書
『北夷談 樺太探検・北方経営の先駆者 松田伝十郎の蝦夷地見聞録』
中俣満/偏訳 松永靖夫/監修 新潟日報事業社(2009年4月30日)
1799年、蝦夷地が幕府の直轄地になると、松田伝十郎は蝦夷地取締御用係となり、エトロフ島・カラフトなどの赴任した。これは、1822年に蝦夷地が松前藩に返還されるまで続いた。
本の内容は、数度に渡る松田伝十郎の蝦夷地赴任記録の現代語訳。文章は読みやすい。以下のように7回に分けて書かれている。
第1回:1799年、アッケシに上陸してアブタに赴任しここで越年。
第2回:1803年、エトロフ島に赴任しここで越年。帰府後、ロシアのカラフト・エトロフ島襲撃事件が起こる。
第3回:1808年、ソウヤに赴任して、カラフト探検をする。
第4回:1809年、カラフトに赴任して、越年。カラフトアイヌが山丹交易で多額の借金を背負っていたため、幕府の金を使って、借金を清算する。
第5回:1812年、カラフトに赴任して、山丹交易の改革に努める。翌年、松前にてゴロウニンの警備に当たる。
第6回:1817年、江差に赴任。
第7回:1820年、函館に赴任。1821年、宗谷・カラフトを見回り、マシケで越年。1822年、蝦夷地の松前返還にともない御用済となる。
1808年の第3回渡航では、松田伝十郎が西海岸を探検し、間宮林蔵が東海岸を探検した。松田は、アムール川河口対岸のラッカに至り、カラフトが島であることを確認した。間宮は途中で東海岸探検を断念して、西海岸に移動して、松田等の案内でラッカに至り、カラフトが島であることを確認した。
当時、大陸の山丹人(満州人)がカラフトで交易をしていたが、そのなかで、カラフトアイヌは多額の借金を背負っていた。借金のカタに奴隷として、大陸につれて行かれる者もあった。松田は、アイヌの借金の清算に尽力して、山丹との交易を正常化した。
第3回・4回渡航では、この間の事情が詳しく記されている。カラフト探検では、図も交えて、当地の地理・動植物・住民の様子が書かれている。また、当地の夷人は、頻繁に大陸に渡っていること、さらには、満州の役職名をもらっている者がいることなどを見聞している。
第1回渡航では、アイヌの生活習俗が図入りで詳しく説明されている。