北方領土問題参考書


北千島の自然誌 寺沢孝毅/著 丸善出版(1995/6)

 
1992年にソ連が崩壊すると、これまで容易に行けなかった場所にも、行けるようになった。このため、1990年代には、千島関係の旅行記・取材記などが多数出版された。本書も、こうしたもののひとつで、北千島の旅行記。「どのように訪れたのか」「動物を中心とした自然がどのようであるのか」このようなことが記述の中心。郡司の探検など、北千島の歴史的経緯に触れている部分もあるが、多くは無い。


樺太一九〇五−四五 日本領時代の少数民族 北海道立北方民族博物館 1997/7

 
 網走市にある、北海道立北方民族博物館で行われた、特別展示の図録。前半は、樺太先住民族の解説。後半は、展示品の写真と解説。展示品は、私立函館博物館所蔵の北蝦夷画帖の写真と、オタスで収集された生活用具の写真。北蝦夷画帖は安政4年にサハリンを調査した佐倉藩士により描かれたものとされる。オタスとは、敷香(ポロナイスク)郊外にあった、アイヌ以外の少数民族の居住地。昭和初期に先住民指定居住地となり、ウイルタ、ニヴフ、ウリチ、エベンキ、サハ5民族の多くが、ここに集められた。
 本書前半は、「南樺太日本統治時代の先住民族の状況(人口など)の説明」「北川アイ子氏(ウイルタ)のオタスでの生活状況の説明」「ウイルタ語のはなし」の3つの解説がある。どれも、数ページにコンパクトにまとめられている。特に、最初の項は、樺太少数民族の状況が非常にコンパクトにまとめられている。


講座「サハリン少数民族の過去と現在」 北海道立北方民族博物館 1998/3

 

 北海道立北方民族博物館で行われた、特別展示に関連して行われた講座の報告。内容は以下の5項目。
@エンチュ(樺太アイヌ)の人口と居住地の推移
A日本統治時代にスパイ容疑を受けたヤクート人Vinokurov(ウイノクロフ)について
Bロシアから見た今世紀のサハリン少数民族
C樺太アイヌと石狩・江別の表題による2ページ強の話
D田中了氏による樺太少数民族、特に、オタスのゲンダーヌ北川氏の状況について


千島列島に生きるアイヌと日露・交流の記憶 北海道立北方民族博物館 2009/7



 今回も、北海道立北方民族博物館で行われた、特別展示の図録。
 本の前半は、千島列島の歴史・オホーツク文化の歴史・千島列島への日露両国の進出史・戦前の北洋漁業など、千島列島史の詳しい内容が、コンパクトにまとめられている。
 本の後半は展示品の写真。占守島で収集された生活用具・十字架等の遺物、色丹島に移住した千島アイヌの生活用具など、珍しいものがある。


ディアナ号の軌跡 富士市立博物館(H17/1)

 

 平成17年1月15日〜2月13日、富士市立博物館で行われた特別展示の図録。
 1854年、プチャーチン率いるディアナ号は、日露条約交渉のために、日本にやってきた。下田沖に停泊し、下田にて条約交渉の最中、安政大地震に遭遇し、富士市沖で沈没した。
 本書は、図録としては写真が少なく、写真サイズも小さめ。展示品の解説よりも、ディアナ号と日露条約交渉の説明が多い。説明の章立てが、ちょっと分かりにくい。
 
 現在、戸田村と富士市にはディアナ号の碇が展示されている。また、本書には記述はなかったが、靖国神社と横須賀三笠公園には、ディアナ号の大砲との説明書きがある大砲が展示されている。ディアナ号の碇は本物と考えられているが、大砲はディアナ号の物ではないとの説が有力のようだ。


『シベリアにうずめたカルテ』平出節雄/著 (2001/03)文芸社

 
 シベリア抑留体験者の体験記はいくつも出版されているが、本書も、このような本の一つ。
 
 軍医だった著者は、満州でソ連軍に武装解除され、シベリア抑留となった。当時の日記を出版したような雰囲気ではあるが、実際には、帰国後に、当時を思い起こして、日記風にまとめたものを、著者の死後に、遺族が出版した。
 日記風ではあるが、実際の日記ではないので、明らかに著者が体験したものでないことも、実際に見聞したような雰囲気で書かれている。また、著者の死後に出版されたものなので、著者の校正は入っておらず、記述の信憑性には疑問がある。軍医によって書かれたもので、一定の価値はあるだろうが、書かれていることがすべて真実と信用するわけにもゆかず、評価が難しい本だ。


岩手県立博物館/編『北の黒船 岩手県立博物館第59回企画展』岩手県文化振興事業団(2008/3)

 

本書は、岩手県立博物館企画展の展示品解説図録。
 
 1789年に起こったクナシリ・メナシの戦いや、ロシアの南下などの伴い、1799年、幕府は、松前藩から東蝦夷地を取り上げ、さらに、1807年には西蝦夷地も取り上げ、幕府直轄地とした。北辺の緊張緩和に伴い、1821年には、蝦夷地を松前藩に返したが、1854年の日米和親条約で箱館が開港されると、1855年には、再び、蝦夷地は幕府直轄地となった。
 これらの動きに伴い、東北諸藩には、蝦夷地警護が求めらた。1792年にラクスマンが来航し、翌年、松前で応接した時には、盛岡藩・弘前藩が松前藩とともに警備に当たっている。1807年に起こった、ロシアのカラフト・エトロフ島襲撃事件では、警護の盛岡・弘前藩士は、ほとんど抗戦することなく逃げ出した。この事件後、幕府は東蝦夷地を盛岡藩に、西蝦夷地を弘前藩に永久勤番を命じた。1821年に蝦夷地が松前藩に戻ると、盛岡藩兵も一旦は蝦夷地から引き揚げたが、1855年の幕領化に伴い、再び、蝦夷地警護を命じられ、胆振などの警護にあたった。このように、盛岡藩は蝦夷地との関係が深い。
  
 岩手県立博物館企画展は、盛岡藩を中心とする蝦夷地警備の様子を、絵図や古記録、勤番日記類によって紹介している。展示品の多くは、岩手県内にある資料を掲載しており、岩手と蝦夷地の関係を理解する上でも有用な内容になっている。
 図録は、展示品の写真と、解説。勤番日記類などは、文書を活字化してあり読みやすい。また、蝦夷地の古地図や陣屋の絵図なども豊富で、写真を見るだけでも、十分に楽しめる内容になっている。


『古代北方世界に生きた人びと 〜交流と交易〜』 (2008.4)

 

 新潟県立歴史博物館、東北歴史博物館、北海道開拓記念館で2008年4月〜11月に順次行われた企画展の展示解説図録。
 
 日本が弥生時代・古墳時代・平安時代と続くころ、北海道では、続縄文、擦文、アイヌ文化が起こっていたし、オホーツク沿岸には、オホーツク文化やトビニタイ文化があり、日本とは異なった時代だった。また、北東北から北海道では、日本民族とは異なったアイヌや北方諸民族が暮らしていた。
 彼等な間では、広く交易を行なわれ、さらに、日本との交易も行われていた。
 
 この企画展は、弥生時代末から平安時代を主な対象とし、特に交流と交易に注目しながら、土器・鉄器・装飾品など200点あまりの展示がおこなわれた。
 本書では、展示された品々の写真を掲載し、それらを解説し、さらに、この地域の歴史を解説している。展覧会の図録であるため、展示品の解説が主目的になっており、通史ではないので、十分な歴史理解には不十分な点も生じると思うが、写真を通して視覚的に理解できるので、北方世界の歴史を理解する一助になるだろう。


『北海道立北方民族博物館総合案内』 第4版(2006.3)   初版は1993.3

 

 博物館展示図録を2冊続けたので、今回も、博物館の図録。
 
 これは、網走市にある道立北方民族博物館の展示品の解説図録で、展示品の写真と簡単な解説が記載されている。
 日本の北方民族はアイヌだけれど、もっと、北に目を向けると、ニブフ、ウイルタ、イテリメン、エベンキ、アリュート、イヌイトなどの、諸民族が暮らしている。この博物館は、これら、北方諸民族の衣服・楽器・生活用品などの展示や、歴史・交易などの解説がある。
 図録は、展示品のうち、主要なものをコンパクトにまとめてあって、北方諸民族の実態がざっと理解できるようになっている。
 
 北方諸民族の名称と居住地が頭に入っていないと、展示品を一通り見ても、なかなか、頭の整理がつかないので、もし、展示を実際に見る場合は、事前に、ある程度知識を得ておいたほうが良いだろう。本書は、このような目的にも、ある程度有用です。


『関熊太郎伝 北方領土の探検家』 桐原光明/著 (1996.4)暁印書館



 北千島の探検家では、報效義会の郡司成忠が有名であるが、関熊太郎は郡司の一年前に、北千島の探検を試みている。しかし、関熊太郎は、当時1000人程度の人口があった、エトロフ島を一部探検しただけで、資金が枯渇して、北千島に到着することなく、事業は終了した。
 その後、北千島探検の重要性を説き、政府に開発資金を求める等の活動をしたが、それも失敗に終わった。

 本書は、関熊太郎の生い立ちから、エトロフ島の探検、その後の活動など、関熊太郎の伝記。
 しかし、伝記であるならば、史実を書けばよいが、本書では、「もし・・・ならば・・・であろう」調の記述が散見され、その根拠を示しておらず、これでは、伝記というよりも、郷土の人を偉人と美化して書いた単なる「ヨイショ」本に過ぎない。

 すぐれた開拓事業に対する提案をした関熊太郎であるが、せっかく千島まで渡りながら、探検調査に止まり、この提案が活かせず、中途で終わってしまったのはかえすがえす残念である。なぜ、探検どまりで終わってしまったかといえば、結論は拓殖事業にふさわしい資金が枯渇していたからである。豊富な資金さえあれば、千島拓殖事業は成功したであろう。(P110)

 まったくばかげた見解に感じる。魅力ある現実的な開発提案が出来なかったから、資金調達に失敗したのであり、資金が枯渇しないような拓殖事業計画が立てられなかったから、資金が枯渇したのだ。失敗する事業は、みんなそんなものです。

 歴史的に見て、北方領土問題、千島開拓のパイオニアがもし、、日本にいなかったら、今頃、日本はどうなっていたであろうか。考えてみただけでも、身の毛が弥立つ。(P97)

 何を、バカ話をしているのか。「もし・・・たら」はいくらでもいえるが、いずれにしろ、関熊太郎は失敗して、役に立たなかったのだから、この事業があってもなくても、何も変わらなかっただろう。

 こういうバカ話の他にも、まじめに書いているのだろうかと疑問に思う記述もある。
 P59では、樺太千島交換条約を根拠に、『それ以降の条約その他についても「千島列島」とは前記十八島(シュムシュ島からウルップ島まで)を言うのである』と書いている。GHQ指令や平和条約国会の政府答弁などでは「千島列島」に国後・択捉が含まれていることを、著者は知らないのだろうか。
 さらに、P100には広辞苑の「千島列島」の説明を引用して、『一般に言われる千島は、国後、択捉、得撫・・・・占守、阿頼度・・・』と書いており、P59の記述と違う。


国立歴史民俗博物館/編『アジアの境界を越えて』2010.7

 

国立歴史民俗博物館で2010年7月13日〜9月12日におこなわれ、その後、国立民族学博物館で2010年10月14日〜12月7日に行われた企画展示の図録。写真は豊富なのだけれど、解説がちょっと貧弱。
 
第T部、古代の境界 第U部、近現代の境界 の2種類の展示があった。
 
 古代の境界の展示は、中国・朝鮮・日本での、土器・冠・黄金の耳飾などの古墳の副葬品や、銅鏡などの埋蔵品の展示で、古代社会における、東アジアの交流を物語っている。
 
 近現代の境界の展示は、アイヌ・ニブフ・ナーナイなどの北方諸民族の服装・装飾品・生活用具などの展示でこれら諸民族の比較が出来るようになっている。また、東南アジア諸民族の同様な展示があった。


『北東アジアの歴史と記憶』金美景/著, 原著, バリー シュウォルツ/著, 千葉眞/監修) ,他 勁草書房 (2014.5)


 日本・中国・韓国では現代政治と歴史問題とが密接に繋がっている。本書は、日本人ではない識者の執筆で、歴史問題と政治とのつながりの様子を説明する。
 日本研究として「靖国問題」「平和主義」「ナショナリズム」を取り上げる。靖国問題は、ある程度の年配者ならば、かつての、靖国神社国家護持に対する各宗教の反対運動などを覚えているので、靖国問題が国内の歴史問題であることが容易に理解できるだろう。しかし、小泉靖国参拝の中韓の反発ぐらいしか知らない若年者には、日本の歴史問題であると思い至らないかもしれない。本書では、歴史的経緯を追って説明しているので、理解しやすいと思う。ただし、外国人用に、日本の問題を書いた論文なので、それほど詳しい分析がなされているわけではない。
 中国、韓国に対しても、それぞれ、3件の論文が記載されている。韓国の歴史問題として、竹島問題が挙げられている。韓国にとって、竹島問題は、歴史問題そのものなので、日本における領土問題とは、視点が異なる。


『千島列島をめぐる日本とロシア』 秋月俊幸/著 北海道大学出版会 (2014/5/25)



 日本北辺史研究の大御所による執筆なので、研究の集大成だろうと思って期待して読んだ。しかし、ちょっと、違ったようで、研究の集大成ではなくて、一般向けの歴史解説を目指しているものと思われる。参考文献も、たくさん記載されているが、どの記述に、どの文献の、どこを参考にしたのか、分からないので、研究の手助けにする目的では、使いにくい。
 本の内容は、日露の千島進出から、近年の領土問題まで歴史の順を追って説明している。このうち「第7章 露米会社と千島列島」は、本に書かれることも少なく、あまり知られていないことなので、参考になる。本の2/3は明治以前の千島をめぐる日露の歴史であり、本書の主眼はここに置かれている。この部分が、正しい歴史記述なのか、著者が自分に都合のよい事実だけを取り上げて書いているのか、私には、この時代の歴史知識がないので判断できない。参考文献や引用箇所が示されていれば、それら文献を当たって検討することが可能かもしれないが、本書では、相当に大変なことだ。

 後半1/3は明治以降の歴史。この時代の千島・樺太や日露関係の歴史については、他書にも記載が多いので、本書を読む必要は感じられない。本書の記述はページ数もあまり多くないので、内容も、豊富とは言えない。

 千島樺太交換条約交渉に関連した次の記述には、がっかりした。
 『榎本のストレモウーホフとの談判は見事なものであった。島上分界の不可を主張するストレモウーホフの論拠は榎本によって一つ一つ論破され、かつて駄々をこねる子供のような小出大和守を手玉に取った熟練外交官のストレモウーホフも榎本にはたじたじであったようである。(「大日本外交文書」七巻参照)pp221』
 この記述で、著者は『「大日本外交文書」七巻参照』と書いているが、418ページから449ページの中の、榎本・スツレモ−ホフ対話書として、日本人書記官が翻訳した所を参照しているのだろうか。榎本の部下に当たる書記官が、榎本を否定的に書くはずもないので、こんな資料で、『榎本のストレモウーホフとの談判は見事なものであった』などと考えるなど、信じられない。
 政治家は、自分の出世のために、自分の成果を大げさに見せたがるものである。このため、日本側の資料で、日本の外交官がすばらしかったかのように書かれていても、それだけでは、信憑性があるとはいえないので、必ず、裏づけを取る必要があるのに、本書の著者は、ロシア側資料を参考文献に挙げていないのは、どうしたことだろう。自分が贔屓している偉人を、ヨイショする目的で書いたのだろうか。
 そのような疑いの目で、明治以前を含む他の記述を読むと、冷静な史実を書いているのではなくて、特定の人たちを賞賛し、別の人たちを貶める意図が有るような感じもしてくる。

 終章は第2次世界大戦期およびそれ以降の千島の歴史であるが、この章は、むしろ、書かない方が良かったのではないかと思える。たとえば、290ページから292ページの文章の末尾を見ると、「させたようである」「決めていたようである」「行方不明325人にのぼったという」「スターリンの意図だったといわれている」「疑念をもっていたともいう」「もしそのことがなかったら…壊滅していたかもしれないといわれている」となっていて、これでは、噂話に過ぎない。「いう」と書くならば、だれがどのような根拠で言っているのか明確にしなければ、歴史解説としては意味がない。特に、歴史の解説書で、「もし…たら…かもしれないといわれている」は、ないでしょう。


『蝦夷古地図物語』梅木通徳/著 北海道新聞社 (1974)



 北海道・千島・樺太あたりの地理認識がどのように深まっていくのか、この過程を知る上で、古地図は重要だ。
 本書は、1974年に出版され、100ページ程度と少ないためで、掲載されている地図も、解説も少ないが、日本・ヨーロッパ・ロシアの地図をいろいろと掲載してあり、それなりに、地図の変遷が理解できる。

もっと、詳しく知りたい人は、以下の本が良い。

『古地図と歴史‐北方領土』 北方領土問題調査会編同盟通信社(1971.1)
『北方図の歴史』 船越昭生 講談社(1976) 
『日本北辺の探検と地図の歴史』 秋月利幸/著 北海道大学図書刊行会(1999.7)


高倉新一郎/著 『千島概史』(昭和35年)南方同法援護会



   古い本なので、読む機会はほとんどないと思う。
 内容は、「千島へのロシアの進出」、「日本の進出」、「日露の出会いと衝突」、「日露和親条約による国境画定」、「樺太千島交換条約」、「戦前の北千島経営」、「太平洋戦争期の千島」、「ソ連の千島占領」と時代を追って、千島の歴史を説明している。ただし、ページ数は170ページで、字が大きいので、あまり詳しくはない。このため、千島の歴史を、ざっと理解しようとする人には好適かもしれない。

 場所請負とアイヌの人口について以下の記述がある。
 国後場所は、文化十(一八一二)年二千三百五十五両で松前の米屋藤兵衛なる者が請負うことになったが、競争入札のため高価に失したか経営が続かず、毎年請負が変り、しかも収支償はず、文政三(一八二〇)年千両に落したが、それでも天保八(一八三七)年から十三年(四二)年まで不漁が続き、請負人の損失金合計四万円に及んだといい、嘉永六(一八五三)年には更に五百両に落さざるを得なくなった。
 蝦夷の人口も文政五(一八二二)年の三百四十七人から九十九人に減少し、同じ柏屋嘉兵衛が請負っていた根室場所及び斜里場所から年年多くの蝦夷を出稼させねばならなかった。
 択捉島も、最初高田屋嘉兵衛に請負はせた時は年二千両の約束であったが、年々凶漁が続き、文政元(一八一八)年には千両に落さざるを得なかった。殊に高田屋が天保二(一八三一)年に没落した後は経営がうまく行かず、有力者に半強制的に請負はせて漸く維持し、天保十三(一八四二)年から伊達林右衛門と栖原仲蔵が請負うことになった。
 蝦夷の人口は開島当時百九十軒、人別千百十八人あったものが、安政三(一八五六)年には八十九軒四百九十八人に減少していた。(P103,P104)

東北アジアの歴史と文化 菊池俊彦/編 北海道大学出版会

 

 第一線の研究者によって、この分野の研究の現状と課題が提示される。一人の研究者が一つの章を担当。
 正直申しまして、あまり、関心のある話はなかったので、目次だけ書いておきます。
 
 
第T部 北東アジアの考古学世界
 第1章 北東アジアの人類集団 
 第2章 出シベリアの人類史 
 第3章 アムール下流域のオシポフカ文化 
 第4章 北東アジア新石器社会の多様性 
 第5章 北東アジアの初期鉄器文化 
 第6章 草原の考古学 
第U部 北東アジアの古代国家
 第1章 蝦夷と粛慎 
 第2章 辰韓・ ・秦韓・新羅・統一新羅 
 第3章 「靺鞨罐」の成立について 
 第4章 東亜考古学会の東京城調査 
 第5章 クラスキノ城跡井戸出土土器群の考察 
 第6章 女真の考古学 
第V部 環オホーツク海の古代世界
 第1章 オホーツク文化を担った人々 
 第2章 オホーツク文化成立以前の先史文化 
 第3章 オホーツク文化前期・中期の地域開発と挫折 
 第4章 元地式土器に見る文化の接触・融合 
 第5章 国後島の大規模竪穴群と擦文文化 
第W部 北東アジアの中世世界
 第1章 北日本の古代末から中世 
 第2章 契丹国(遼朝)の成立と中華文化圏の拡大 
 第3章 イェケ=モンゴル=ウルスの成立過程 
 第4章 モンゴル高原から中央アジアへの道
 第5章 「北からの蒙古襲来」をめぐる諸問題 
 第6章 ガラス玉の道 
第X部 北東アジアの民族接触
 第1章 明代女真氏族から清代満洲旗人へ 
 第2章 近世日本から見た千島列島史 
 第3章 漂流民が見た千島のアイヌ 
 第4章 サンタン交易の経済学 
 第5章 セイウチの来た道


菊池勇夫/著 『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』 (朝日選書) (1994/09)



アイヌ民族の歴史を日本との係わり合いで解説している。
「アイヌと日本人との交流史」と言った感じです。
もちろん、日本人に都合の良い立場で書かれているわけではない。例として、2箇所。

境界権力のゆくえ
 ところで、蠣崎氏は秀吉・家康の統一権力に寄り添うことによって近世大名化を遂げていったが、これは前章で述べてきた境界権力という系譜のなかでどのように位置づけられるのだろうか。元和四(一六一八)年、松前に入った宣教師アンジェリスに対して藩主公広は、「パードレの松前へ見えることはダイジモナイ、何故なら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではない」(『北方探検記』)と語ったという。日の本将軍ないし安日の後喬を自任し、自立的権力への可能性を秘めていた安東氏の実質的な後継者であったればこそ、蠣崎・松前氏が松前地を日本ではないと断言しえたのだといえよう。松前氏は近世を通して蔑みの感覚で「エゾ大王」視されることがあったが、近世初頭においては自ら「狭の島主」であることを誇りとし、秀吉や家康に対してもその点をアピールし、またその扱いを受けてもいた。もしも蠣崎氏が統一権力への服属を迫られなかったならば、かなり別な方向、蝦夷国家への道を歩んでいたことも想像できないわけではない。(P73,P74)
松浦武四郎の見たもの
 文政四(一八二一)年の松前藩復領、また安政二(一八五五)年の全蝦夷地の収公と、変転していく幕末期の蝦夷地は、それ以前に増して場所請負制がアイヌ社会に猛威をふるった時代であった。アイヌ人口が、文政五(一八二二)年二万三五六三人、安政元(一八五四)年一万七八一〇人(前掲『アイヌの歴史』)、あるいは文政五年二万三七二〇人余、安政元年一万八八〇五人(海保嶺夫『近世の北海道』)と、二〇〜二五%もの人口がわずかの期間に減っていることでも、それは明らかだろう。
 こうした幕末期のアイヌ社会の破壊的状況は松浦武四郎の精魂傾けた蝦夷地踏査記録に克明に記されている。武四郎は何度となく蝦夷地を歩き回りアイヌの生活にじかに接し、場所請負制のひどい実態を暴き出したが、なかでも石狩場所はアイヌ一人ひとりの消息を徹底して調べあげた所である。いうまでもなく、石狩場所は石狩川本支流域に展開した広大かつ資源豊富な場所で、かつては一三もの場所が存在していたが、文政期以来阿部屋伝次郎(村山伝兵衛)の一手請負となっていた。石狩場所のアイヌ人口は、武四郎によると、文化七(一八一〇)年三八〇〇人余、文政四(一八二一)年一一五八人、安政三(一八五六)年六七〇人を数えている。ただし、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』には文化四年二二八五人とあり、文化七年のデータと食い違うが、一八世紀前期のうちに少なくとも三分の一以下に人口が激減し、数ある場所のなかでも最も破壊の進んだ場所ということができよう。武四郎はしかも安政三年のデータが実態を反映していない作為的な数値であることを見抜き、これを「不人別帳」と批判していた。
 その数字には、死亡・逃亡した者など実在しない約一四〇人余もの人々が含まれていたうえ、一三場所に配当された人口数は、すでに居住者がいないにもかかわらず住んでいるかのように糊塗するための操作としかいえないものであった。しかも元来のコタンに現住する者は、最上流の上川筋を除けば、老人・子供・病人・身障者といった弱者がほとんどであり、生活力あふれた元来のコタンはほとんど壊滅状態であった。働ける者たちは、「浜下げ」といって運上屋に根こそぎ駆りだされ、「雇蝦夷小屋」に収容されるか、運上屋の周辺に居住した。武四郎は約二六〇人余について「浜下げ」の事実を確認しているが、運上屋に集められた人々が苛酷な労働や庖瘡の流行によって次々死亡し、急激な人口減を招いた。庖瘡は雇小屋に集住させられていただけにいっそう猛威を振るった。そして、働けなくなった者は容赦なく放り出され、山野の恵みで自活する他なかったのである。
 番人たちによるアイヌ女性に対する強姦や妻妾化も凄まじいものがあった。武四郎が石狩場所で挙げているだけでも、番人妻妾が三二例にも達していた。夫婦である者を無理やり引き裂き妾にするなど、前述したクナシリ・メナシの蜂起の原因となった番人たちの横暴は、その後抑えられたどころか常態化していった様を知ることができる。
 浜下げによるコタンの破壊、人口減少は石狩場所に限られたことではなかった。栖原屋が請け負った最北の北蝦夷地(樺太)でも、田島佳也が明らかにしたように、鰊漁にアイヌが漁夫として強制的に駆り集められ、番人に叱咤されながら働いていた。日々の食さえ満足に与えられず、一家は離散し、アイヌコタンは廃村と化した。鰊漁後は鰊だけを食わせるとか、アイヌを三、四人くらい殺してもかまわないといった番人の恣意・暴言が罷り通っていた。藤野喜兵衛(柏屋)の請負場所では、モンベツ場所のアイヌをソウヤへ、アバシリ・シャリ場所のアイヌをクナシリへと強制的に他場所へ移して働かせることもしていた。いずれにせよ、場所請負人たちはこうしたアイヌ民族の犠牲のうえに巨万の富を築いていたことになる。
 武四郎はこうしたアイヌの窮状打開を、箱館開港に伴い蝦夷地を直轄した幕府の開明的な政策に期待するところが大であった。じっさい、幕府は安政五(一八五八)年石狩場所の改革に取り組み、「土人撫育」を怠ったとして阿部屋の私利私欲ぶりを糾弾し、その請負を止めさせ、幕府の直捌場所としている。しかし、幕府のアイヌ政策は風俗改めなど同化政策に走り、従来の「下され物」支給以上に、肝心の生活基盤の安定を図る方策が何らとられることはなく、武四郎の期待をことごとく裏切ることになっていく。明治維新によって、武四郎は開拓判官として官に仕え、北海道の命名者ともなったが、これまた失意のうちに野に下る。寛政一一年の蝦夷地直轄以来、幕藩制国家、さらに明治新政府はアイヌの「介抱」や「撫育」をスローガンに蝦夷地に介入してきたが、それがいかにアイヌ民族の期待や願いから乖離したものであったかを知らねばならない。(P144〜P146)

『元外務省主任分析官・佐田勇の告白: 小説・北方領土交渉』 佐藤優/著 徳間書店 (2014/1)



 本の内容は、フィクションということになるのだろうけれど、登場人物の名前も実名が容易に推定できるようになっているし、人間関係を含めて、基本的には、事実をそのまま書いているように感じられる。事実を書くために、あえて、フィクションという形をとったとも思える。
 当然のことであるが、内容は、著者の立場から見た事実であって、その意味では、一面的ではあるが、日ロ交渉を中心とした、日本外交の雰囲気が分かる。


北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団 入間田宣夫,斉藤利男,小林真人/編 山川出版社 (1999/7)
 


北奥羽と蝦夷地世界の形成という主題の基に行われた第22回北海道高等学校日本史教育研究大会のシンポジウムの報告。
擦紋文化・サハリン・沿海州の関係の問題 中世〜近世における蝦夷地仏教布教の問題などが論じられている。




 終戦当時の北方4島の証言など
 ・千島歯舞諸島居住者連盟/編 『われらの北方四島 ソ連占領編』
 ・根室市総務部企画課領土対策係/編 『北方領土 終戦前後の記録』
 ・高城重吉/著 『還れ北方領土』





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