東北アジアの民族と歴史


     三上次男・神田信夫/編 『東北アジアの民族と歴史 民族の世界史3』 山川出版社 (1989/10)

 本書が対象としている地域は、シベリア・中国東北部・朝鮮。
 3部構成。第1部はこのちいきの「自然」「民族文化」「言語」。第2部は3地域の歴史。このうち、シベリアの歴史はこの地域へのロシアの進出による先住民族の変容が主題になっている。第3部は主に中国の近代史で、本書の対象地域とは若干外れるように感じる。

 シベリアや中国東北部の民族は複雑で、今でも少数民族が多い。言語はチュルク語系やツングース系、あるいは抱合語系など、変化に富んでいる。この地域の民族文化を理解するためには標準的な参考書になる。また、各省は執筆者が違い、特に関連性がないので、興味のある賞だけを読むことも可能。

 旧ソ連地域のシベリア先住民族の人口変化の表が、P134,135に記載されている。ヤクート人が増えたなど、民族によって増減に差があるが、ざっと見れば大きな変化はない。ただし、民族語を母語とする人たちの割合は時代とともに大幅に減少している。
 これに対して、P81-P83に記載されているアイヌ特に樺太アイヌは、日本統治下の民族政策が原因で、絶滅寸前にまで追い詰められていったことがわかる。

アイヌ  生態学的にみて東北アジアの沿岸部とほぼ同様の条件にある日本の北方にはアイヌ独自の文化が形成された。日本の古代・中世におけるエミシ、エゾの文化については部分的に明らかにされているにすぎない。近世にはアイヌの住地は北海道、樺太(サハリン)、千島にあった。アイヌとは人の意であるが、樺太アイヌはエンチゥ、エンジュウという自称をもっていた。北海道アイヌの人口は十九世紀初めには約二万七〇〇〇人、その後半世紀の間に主として疫病のために人口は激減し、安政元年(1854)には約一万九〇〇〇人であったという。そして.明治期以降は政府の政策や本州からの入植者の増大による生活環境、社会的・経済的条件の変化によって、アイヌ社会は急激に崩壊し混血が進み、今日では日常語としてアイヌ語は通用しないまでにいたっている。千島アイヌとは北千島のシュムシュ島とポロモシリ島にいたアイヌのことで、彼らは、この両島とラショワ島に定住的な集落を設け、周辺の島々で漁携や狩猟をしていた。千島アイヌはロシア人やヨーロッパ人からクリール人(クリールとはロシア語で千島列島をさす)とよぼれ、その足跡は南カムチャツカにも残されている。明治八年(一八七五)の千島・樺太交換条約により、北千島と中部千島が日本領となったときには人口は一〇〇余人であったが、その後シコタン島をへて北海道へ移住を余儀なくされるにしたがい、疫病や環境の変化が原因で減少、さらに混血により第二次大戦後には千島アイヌの足跡をたどることはむずかしくなった。
 樺太アイヌの人口は古い記録では文化四年(一八〇七)に二一〇〇人、同じころ調査をおこなった間宮林蔵の報告(「北蝦夷図説」)では二八四七人ほどであった。その後明治八年に千島・樺太交換条約が成立したときには西海岸のアイヌ八五四人が宗谷に移住し、その後江別に移った。そのうち、半数ほどが庖瘡とコレラのために死滅した。新しい環境で生計を立てることができなかったアイヌたちは、日露戦争の前後にふたたび樺太の故郷へ還り(一九〇五年以後の帰還者の数は三九五人)、日本の支配下におかれたが、状況は過酷なものがあった。そして、北辺における日露間の政治的潮流に巻きこまれながら第二次大戦を迎えた。戦後、一部のアイヌは北海道へ引き揚げ、道内の各地に居住した。
 このようにして、アイヌの生活や文化は明治期以降、根底からくつがえされ、変容を強いられたといっても過言ではない。近年まで人びとの生活や記憶に保持されてきた伝統的要素と記録や史料とによって、往時のアイヌ文化はある程度まで再構成されている。が、未知のままにとり残されている領域も少なくはない。しかし、概していえば、アイヌ文化の全体像は、北方地域にその類例を見出すことができる。そして、事実北方の近隣諸族とさまざまな交渉をもっていたことが歴史的にも、民族誌的にも明らかである。しかしながら、一方では北方の諸民族とは異なった文化要素も散見され、アイヌ文化の探求はなお今後の問題としてある。(P81-P83)




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