新版北海道の歴史 上

 
長沼孝、榎森進、田端宏、他/著『新版北海道の歴史 上』北海道新聞社(2011/12)
 
 北海道の歴史は本州の歴史と大きく異なった独自のものがある。本書は北海道の通史であるが、同種の他書に比べて分量も多く詳しい。本書の扱う範囲は縄文時代から幕末の箱館開港までの時期で、時代順に書かれている。巻末の年表も詳しい。
 このうち、第一章は考古学から見た北海道で、縄文時代から続縄文・擦文・アイヌ文化期の北海道の歴史が示される。この部分は全体の1/4におよび、内容豊富。ただし、オホーツク文化の記述は多くないので、オホーツク文化について他の本を読んだほうがよいかもしれない。
 第2章は鎌倉期以降松前藩以前の期間で、サハリンでの元・明との関係にも触れられている。この章はコシャマインの乱と安藤・蠣崎氏の説明も詳しい。第3章は松前藩成立からクナシリ・メナシの乱までのアイヌと和人の歴史。この時期、和人によるアイヌ支配が確立してゆく。
 第4章は対外関係で、特にロシアの南下に対する幕府の対応の説明。第6章は箱館開港から明治までで、対外的には国境画定・外国との交易がなされ、国内的には蝦夷地の近代化がなされた。
 第5章は他の章とはちょっと変わって、アイヌの文化と和人の文化について。
 
 
興味を持った記述2点を書きとめておく。
蠣崎氏が姦計を用いて、アイヌを平定して行った状況について、以下の記述がある。
 
 一五一五(永正十二)年、アイヌ民族の首長層のショヤコウジ兄弟に率いられたアイヌ民族が蠣崎光広の拠る松前の大館を攻撃した。このアイヌ民族の攻撃を受けた光広は、「計略を以て」ショヤコウジ兄弟とその配下のアイヌを「客殿」に招き入れ、彼らの前に「宝物」を並べて酒をふるまい、あたかも彼らと「和睦」するような儀式を行いつつも、この間、家臣たちを「客殿」の陰に隠れて待機させ、「客殿」に招かれたショヤコウジ兄弟をはじめ、その部下たちが酒に酔い伏すや、家臣たちをにわかに「客殿」に乱入させ、光広がショヤコウジ兄弟を斬殺した(『新羅之記録』)。なお、アイヌ民族は、他集団との紛争が起きた際、その紛争の解決方法として、非があったとされた集団が相手の集団に対し、「償い」として「宝物」(アイヌ語でイコロという。多くは日本社会との交易で入手した刀剣類)を差し出すのを常としたが、『新羅之記録』ま、光広がアイヌ民族と戦うことを避け、「計略を以て」ショヤコウジ兄弟をいち早く、「客殿」に招き、光広側から「宝物」を差し出した旨を記しているので、形式的には光広側が率先してその非を認め、「和睦」するふりをしたことが窺える。
 次いでノ五二九(享禄二)年、アイヌ民族の首長タナサカシに率いられたアイヌ民族が上ノ国の勝山館を攻撃した。このアイヌ民族の攻撃に対して、蠣崎義広は、「陰謀」をもって「和睦」し、彼らに「償い物」を与えたが、この時も、タナサカシが「償い物」を受け取ろうとした際に、義広はタナサカシを射殺した。
 さらに、一五三六(天文五)年、今度は、タナサカシの婿である西部のアイヌ民族の首長タリコナが反蠣崎氏の戦いに立ち上がった。しかし、蠣崎義広は、このアイヌ民族の攻撃に対して真っ正面から戦うことなく、いち早く偽って「和睦」し、酒宴の場を設けて、タリコナたちが酒に酔ったところをみはからって、義広自らがタリコナを太刀で斬り殺したのである(『新羅之記録』)。
 このように、蠣崎氏が松前の大館に移転した後、アイヌ民族の攻撃の対象は蠣崎氏それ自体に向けられるようになったが、こうしたアイヌ民族の攻撃に対する蠣崎氏の対応策で特徴的なことは、右のようなだまし討ち作戦に出たことである。蠣崎氏が、アイヌ民族の攻撃に対して、このようなだまし討ち作戦で臨んだのは、当時の蠣崎氏は、下国安藤氏から夷島の「代官」という政治的地位を認知されていたものの、蠣崎政権の政治的軍事的基盤は未だ弱かったこと、そのため、もしアイヌ民族と全面的に戦ったならば、当時の蠣崎政権の軍事力とアイヌ民族側の勢力を比較すれば、アイヌ民族側の勢力の方が遥かに優勢であったことから、蠣崎政権が敗北することは明らかであったために、アイヌ民族と全面的に戦うことを極力避け、そのうえでアイヌ民族側の主勢力を繊滅させることによって、一時的とはいえ、アイヌ民族の攻撃から難を逃れるための有効な方法であったことによるものと推察される。(p222,223)
 
ロシアの進出と湊覚之進の報告について、以下の記述がある。
 
 子年(一七五六11宝暦六年)、牧田伴内という藩士がアッケシに来ていた時に、同所の沖の島に「唐人船」=外国船が一艘、碇舶していた。百人ほども乗り込んでいるように見えた。「アッケシ蝦夷」が様子を見てきたところでは「商人船」の様子であったという。「蝦夷の婦人三人」を「理不尽」に連れ去っていった。三日ほど滞留して「出船」していった。「出船」の時に大砲を放っていったが、昼過ぎには見えなくなった。牧田伴内は、このことを「深くかくし」ていたので、アッケシに来てはじめて聞いたことであった。この報告では、外国の商船らしい船として触れているが、この年代に、この海域を航行する外国船は、ロシア船と考えて間違いないと思われている。
 湊覚之進の報告には、さらに次のようなことが触れられていて、ロシアが北千島にかなりの拠点を構築していた様子を伝えている。
 湊覚之進がアッケシに滞在中、エトロフ乙名のカツコロとクナシリ乙名のサヌシテカが渡来し、一昨年(一七五七目宝暦七年)、「クルムセコタン」に行って来たというカツコロが、その時の様子を話した。「あかき衣類」を着た「唐人」が大勢いて、「カムイトノコタン」=松前侯の城下町=と同じような様子に見え、「番所」も設けていた。とがめられないようにと思って山の上から町を見おろしてみると、かなりたくさんの家数があった。カツコロ自身も「狸々緋衣」を着ており、立派な細工を施した[鑓」や斧を持っており、島々の名前もいろいろ聞かせてくれた。
 松前藩は、クルムセにおける[唐人」(この場合もロシア人と考えられる)の動向、そこに置かれた拠点の様子をある程度把握していることになるのだが、この情服は、藩内でも「深くかくしておかれたらしいのである。クルミセ島とその辺の島々をラッコ島という(「正徳五年松前志摩守差出候書付」)とか、千島の極東にラッコ島、一名クルムセという大きな島がある(三国通覧図説)、ウルップとは鱒のような魚を指し、周りでこの魚がとれるのでウルップ島というが、ラッコという海獣もとれるので、ウルップ島はラッコ島ともいわれる(最上徳内『蝦夷草紙』)など、クルムセ、ラッコ島についての説明がいくつかあるが、千島列島のうちでも遠隔の島々、ラッコをとることのできる島々、なかでもウルップ島が、クルムセ、クルミセにあたる代表的な島ということになるようで、エトロフ乙名カツコロが見てきたという城下町のように整った「唐人」の基地もウルップ島にあったのだと思われる。『三国通覧図説』も、この島に「莫斯寄未亜」人が多く居住するようだ、と伝えるようになるのである。
 のちに松前藩は、幕府の問い合わせに答えて、「エトロフ蝦夷人」と交易、「介抱」のために船を派遣してはいないが、「クナシリ嶋蝦夷人」とともにアッケシ辺に来て「介抱品」との交易をしている、クナシリ辺には「交易撫育」のための船を派遣しているが、それは、宝暦四(一七五四)年からはじめたものである(『休明光記附録』一件物巻三)、と述べている。十八世紀半ば、湊覚之進の報告があった頃には、エトロフ、クナシリからはアツケシに渡来し、松前藩の役人らとも接触して交易を行うアイヌの人々がいるのは常態となってきていたと思われ、クナシリへは藩の船が直接、渡航しているというのであるから、ロシア人の動向を伝聞する機会はさまざまに増えてきていたはずなのである。
 エトロフ乙名(地域の首長)のカツコロが「狸々緋衣」を身につけていた、と書かれているのは、エトロフアイヌのロシア人との交流、交易の一端を示したものである。ロシア人は、皆、赤い服を着ているので、アイヌは「ホリ、シイ、シヤモ」(赤いよい人)と呼んでいる(『一二国通覧図説』)と伝えられる。赤い服が「狸々緋衣」である。ロシア人との関係で入手したものであろう。カツコロは、ロシア人をおそれ、警戒しているように話していたようであるが、実際はどうだったであろうか。湊覚之進の報告に書かれていたとされる以上に詳しい情報も伝えられていたかもしれないのである。なお、湊覚之進の報告については、河野常吉「安永以前松前藩と露人との関係」(『史学雑誌』二十七編六号)によっている。河野論文では、この報告は「蝦夷地一件」に収められているとされているのであるが、現在、伝えられている「蝦夷地一件」には、これを含む部分が欠けているようである。(P314~P316)