日露戦争の裏側


大熊秀治/著 『日露戦争の裏側“第二の開国” 日本列島に上陸したロシア軍捕虜七万人』 彩流社 (2011/02)

日露戦争では、多数のロシア兵捕虜が日本各地に抑留された。松山が有名だけれど、捕虜の数が多かったこともあり、収容地位は全国各地に広がっていた。本書で取り上げられている収容値は、松山のほかには、丸亀、善通寺、姫路、福山、名古屋、静岡、豊橋、堺浜寺、大阪、大津、京都、福岡、小倉、山口、久留米、熊本、金沢、敦賀、鯖江、高崎、習志野、佐倉、弘前、仙台、秋田、山形があげられる。

 日露戦争のロシア人不慮の扱いは、国際法にのっとった人道的なものだったといわれることがある。
 この原因の第一に、日清戦争の反省がある。
 十年前の日清戦争の旅順攻略の際、「虐殺事件」を起こし、国際的な非難を浴びたことだ。もちろん、日本軍にも言い分が・・・ある。
 だが、民衆を巻き込んだ殺裁になったこと、捕虜として生命を保護する意識が薄かったことは事実で、後軍していた欧米の記者の報道により、大々的なスキャンダルになった。収拾に苦労した政府が、その二の舞はぜひとも避けたいと考えたと推測できる。
 さらに重要なことは、軍事費の捻出に外債を当てにしていたことだ。結局、五回にわたり計桶億七〇〇万ポンド(一〇億四二〇〇万円)を調達できたが、欧米諸国の世論次第でどうなるか分かったものではなかった。政府は「野蛮に対抗するに文明を以てする」と内外に宣言し、人道主義路線を明確にした。その上で、海外に特使を派遣し、日本への理解を訴え続けたのである。(P19)

 捕虜は、松山をはじめ将校が多かったところで、特に優遇されていた。これは、ロシア兵の将校には貴族が多く、金目当ての売春業が盛んだったことがあげられる。本書では、当時の新聞記事を引用して、次のように記している。
 又しても俘虜の大浮かれ
『新愛知』(五月十一日付け)
 西別院に収容せられ居る将校八名は門前町料理店万梅に至り、芸者七名を招き飲めや唄えの底ぬけ騒ぎを為し、同楼を出て腕車(註:人力車)をつらねて名古屋ホテルに乗り込み、さらに前津の香雪権に赴きまたもやこけの限りを尽くし、又一方に於いて女郎買い熱心の将校あり、二名打ち揃い宮田楼に登楼し(略)
「新愛知』(五月二十二日付け)
 旭遊郭に投入した金は約千円なるが、その八割を吸い取ったのは宮田楼。しかし困ったことは俘虜に買われた女郎の名が新聞に出て、深いなじみの客が愛想を尽かし二度と足踏みせず、楼主は大弱り、何とか新聞に出ぬ様にしたいと苦心(略) 
(P88,P89)
 日露戦争前は、日本ではロシア兵相手の売春が盛んだったので、ロシア兵が捕虜で来ると知った売春関係者は、一攫千金のチャンスとばかり、張り切ったのだろう。次のような日本人妻の記述もあり、興味が持てる。
  そのほか、日本人妻が収容所に現れたこともある。当時の『愛媛新報』によると、公会堂収容のエッカー一等大尉の妻おタキ(二九歳)で、長崎から訪れたという。しばらく滞在していたが、健康がすぐれぬために、三月中に引き上げたようだ。長崎は戦前、ロシア東洋艦隊の避寒地となり、ロシア人村が出来ていた時代もあっただけに、そうした家族があっても不思議ではない。(P55)

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