日露戦争のときの捕虜虐待

日露戦争のときの捕虜虐待


 日露戦争のとき、日本はロシア兵捕虜の扱いが人道的であったとされている。実際、松山捕虜収容所のように、外国人記者の目が届くところでは残虐行為はなかったようだ。しかし、外国人記者の目の届かないサハリンでは、時には100人を超える規模での捕虜虐殺や住民処刑が知られている。ニコライ堂の大司教ニコライ・カサートキンは次のように書き記している。
1905年11月8日(21日)、火曜
 サハリン軍管区総督ミハイル・リャプノーフ陸軍中将が、副官一人を従えて訪ねてきた。仙台の捕虜収容所から来たのだ。リャプノーフは、ロシアの行政がいかにずさんで混乱しているかを、例をあげていろいろ話した。
 一緒に来た副官は、日本人の、背筋が寒くなるような残忍さについて語った。サハリンで130人のロシア人の部隊が降伏して日本軍の捕虜になった。日本人は捕虜全員を、両手をしばり、森の外の平地へ引きずり出して、一人残らず斬り殺した。将校二人には拷問も加え、そのうえで殺した。そして地中に埋めた。一人のロシア兵がひそかに、捕虜になった部隊の後をつけていって、その一部始終を見たという。

1905年11月17日(30日)、木曜
 弘前から捕虜のブリサンフ・ビーリチが来た。ビーリチはサハリンで小さな工場をやっていたが、戦争中は志願者で編成した民兵隊の隊長だった。かれは、日本人のぞっとするような残虐行為をいくつも語った。
 サハリンでは外国人記者がいなかったので、日本人は人道的な国民の役を演じてみせる必要はなかった。それで日本人はありのままの本性を現した。たくさんのおとなしい住民が理由もなくひどく殴られ、女性は暴行された。男性と同じように斬り殺されたり銃殺されたりした女性やこどもたちもいた。囚人は「こいつらは何の役にも立たない」という理由で、集団で多くの者が銃殺された。精神病者たちも病院から引きずり出され、銃殺された。また、まるで家畜のようにデカストリへ連れていかれ、食べ物も与えられず、そこに放置された囚人集団もあった。

ニコライ・カサートキン/著、中村健之介/編・訳 『ニコライの日記(下)ロシア人宣教師が生きた明治日本』岩波文庫 (2011/12)  P241-P243     

 本書は、ニコライ・カサートキンの日記。上・中・下の3冊のうち、下巻は日露戦争を含む時期が対象。