シベリア抑留参考書

小林昭菜『シベリア抑留 米ソ関係の中での変容』(2018/3)岩波書店
 

 シベリア抑留と言うと、今から20年ほど前ごろまでは、単に「シベリア抑留はつらかった」「ソ連の対応が悪かった」「日本は悪くない」そんな内容ばかりだった。抑留体験者の多くが故人となった今、シベリア抑留で死亡した原因の一つに、日本人将校の対応の悪さが原因の一つであることが明らかになっており、客観的に史実を解明する研究も増えてきた。しかし、多くは日本の資料が中心だった。本書は、ロシア側資料やGHQ史料も利用することにより、シベリア抑留の実態を明らかにしようとしている。このため、シベリア抑留を知るうえで欠かせない図書と言えるだろう。

 最初に、目次を記載する。

序章 米ソ関係の中で生まれた悲劇    1
 はじめに    2
 1 「シベリア抑留」とは    6
 2 「シベリア抑留者」は捕虜なのか、抑留者なのか    8
 3 先行研究    10
 4 先行研究における問題点    18
 5 本書の視覚米ロの史料から見えてくるもの    19

第一章 なぜ日本人将兵は抑留されたのか    21
 はじめに    22
 1 極東ソ連軍の満州進攻と関東軍の武装解除    23
 2 日本人捕虜の総数    30
 3 シベリア抑留」の発生理由は関東軍の密約か、北海道北部占領との代替か    36
   関東軍と極東ソ連軍との密約説/代替説/労働力としてのソ連移送
 小括    48

第二章 日本人軍事捕虜の移送と収容所での生活 51
 はじめに 52
 1 ドイツ人軍事捕虜と日本人軍事捕虜の交換 53
 2 日本人軍事捕虜の移送と配置 56
 3 収容所の実態衛生管理と死亡者対策 62
   日本人軍事捕虜の死亡原因/ハバロフスク地方の高死亡率の背景/ソ連中央政府の対策/ソ連政府の対策の効果
 4 冷戦下のプロパガンダ捕虜郵便はがきをめぐる米ソの攻防 79
 小括 87

第三章 冷戦の中の変容    89
 はじめに    90
 1 政治教育の始まり    92
 2「民主運動」の深化    101
 3 強化される政治教育 「反ファシスト委員会」の設置と日本共産党との連携    108
 4 ドイツ人軍事捕虜の「反ファシスト運動」    116
 5 長期抑留者によるもう一つの民主運動    120
   事件発生の兆候-「大堀事件」/作業拒否とハンストの開始/日本人側の要求/ソ連当局の対応/浅原グループとの確執/ハンガーストライキの決行と武力による鎮圧
 小括    131

第四章 米国から見たソ連の日本人軍事捕虜
 はじめに    134
 1 「プロジェクト・スティッチ」の記録から浮かび上がる「ソビエト化」の実態    135
 2 政治教育の最終ステージ ナホトカ港    139
 3 つくられた「ソビエト化」の危機    144
 4 二重スパイから自民党政治家まで 米国による監視対象者たち    151
   スパイとして帰還した日本人軍事捕虜
 5 米占領軍の「執拗」な帰還者調査から見る抑留の実態    160
   収容所内のモラル/逃亡者/抑留中の性生活
 小括    164

終章    167
あとがき    175
注  シベリア抑留関連資料  人名索引
 シベリア抑留前、玉音放送以降も日本とソ連との間では、戦闘が続いていた。日本の一部勢力には、戦争を終結後にソ連の国際法に違反して侵略したとの言説をまき散らす人たちがいる。実態は玉音放送は戦争を正式に終結させるものではなく、大陸命(天皇の陸軍に対する統帥命令)では、戦争継続の命令が出されていたので、8月15日に戦争が終結しないことは当然だった。この点、本書に説明されている。
 東京の大本営から満州の関東軍への命令には大きな問題があった。すでに「ポツダム宣言」を受諾しているにもかかわらず、8月15日午後11時に関東軍が受け取った大陸命第1381号では、積極的な進攻作戦の中止が命じられる一方で、防衛に必要な戦闘を認めていた。この点は、終戦の条件として、大本営陸軍が連合国に一方的に要求した項目の一つである軍隊の段階的武装解除を計算に入れてのことだったかもしれない。大陸命1381号については、日系米国人歴史家の長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授も「当時すべての関東軍は防衛にあたっており、積極的進攻作戦を行っている軍隊はいなかったから、この命令は戦闘の継続を命令したに等しかった」と記している。翌16日付大陸命1382号で再び「日本陸・海軍の全軍に自衛以外の戦闘行為の即時停止」が発令されたが、これについても長谷川は「大陸命1382号は交戦部隊が例外なくソ連軍より激しい攻撃を受けていたため、任務続行という命令に等しかった」とさらに批判を加えている。
 極東ソ連軍総司令部も、日本の「ポツダム宣言」受諾で関東軍への攻撃を一斉停止したわけではなかった。8月16日には各方面軍に対し、日本軍の戦闘行為の中止と武装解除が実行されるまで進攻作戦を継続するよう命じていた。つまり8月16日の時点では、少なくとも日ソ両軍側に武器を置く意思はなかった。そしてサハリンや千島列島へ日ソ戦争は拡大し、日ソ両軍隊の攻撃が続く状況を招いた。
(P25,P26)  注)長谷川毅の説明は「暗闘 P437」

 シベリア抑留では、多くの日本人兵士が死亡した。抑留者60万人のうち、10%にも及ぶ死者となった。死者のうち、初年度が突出しており、これはドイツ兵抑留者の2倍に上っていた。この原因はいくつか挙げられるが、本書でも、日本将校が兵士の食事をピンハネする不平等な食糧分配や、労働作業ノルマの兵卒への上乗せがあったことが記されている。関連する記述を掲載する。

 死亡原因のトップは栄養失調で、約半分を占めていることから、収容所内の指令第1117/0013号の不履行、食糧配給不足、医療衛生措置の欠陥は明らかである。また、その他の死因に肺炎、結核、チフスがあり、免疫力の低下や伝染病の蔓延をソ連が阻止できなかった点も注目しておきたい。それらの原因が栄養不足によるものであった可能性も排除できない。日本人軍事捕虜の死亡率は同時期に抑留されていたドイツ人捕虜の二倍以上であった(最大の死亡原因は日独共に栄養失調)。このことからも一九四六年初頭に日本人軍事捕虜の死亡者数がいかに多かったかが推測できるのである。(P66)

 ソ連移送から数カ月間は、ほとんどの収容所で関東軍の命令指揮系統が残されたままの生活が続いていた。収容所側も労働作業現場までの移動等で日本軍隊の指揮系統を利用することに利便性を見出していた。だが、日本軍隊式の上官絶対服従の日本人軍事捕虜の収容所では、上官が兵士の食事をピンハネする不平等な食糧分配や、労働作業ノルマの兵卒への上乗せが行われたりした。収容所ではこのような日常生活に不満を抱く捕虜が潜在的に多数いた。例えば政治教育の拠点が置かれていたハバロフスク地方では抑留当初から死亡者が続出し、これに歯止めがかからない状態が続き、下級の兵士を虐げる上官は怨嵯の対象となりつつあった。
 ソ連側は、この潜在的不満を利用する「一大イベント」として「民主運動」を計画し、これをハバロフスク地方で決行させた。(P95)

 シベリア抑留者には「俘虜葉書」が交付された。このはがきに関して、「優良労働者ら一部の抑留者に対して手紙を出すことを許可した(栗原俊雄・シベリア抑留最後の帰還者 )」のような誤った記述だある。本書では、ロシア側資料も参照することにより、シベリア俘虜葉書の実態を明らかにしている。少し長いがほぼ全文を引用する。ただし、参考文献や、他の研究の引用は割愛した。
 セルゲイ・クルグロフ内相は一九四六年七月三日、スターリン、モロトフ外相、ベリヤ政治局員宛てに報告書第2878/K号を送付したが、そこには次のように記されている。

 ここ最近の日本人軍事捕虜の問には、民主的感情の著しい成長〔ソ連に友好的な感情を持つ日本人軍事捕虜の増加〕が見受けられる。これと並行して、日本国内ではソ連にいる日本人軍事捕虜の生活環境はひどく耐えがたいものであるとの噂が益々並日及している。ソ連内務省が日本人軍事捕虜とその家族との問での手紙の交換を決定したのは、合理的判断か、である.日本人軍事捕虜には三カ月に一度手紙を送る権利を与え、作業成績の良い捕虜には三カ月に二回その権利を付与する。

 クルグロフの上記報告書からしばらく経った一九四六年七月二七日、ソ連閣僚会議は第9302Pc号令によって正式に日本人軍事捕虜の捕虜郵便を許可した。そして1946年9月6日、ソ連使節団は連合国の日本特派員のための記者会見を東京で開き、初めて南サハリンとクリル諸島にいる日本人の状況と生活条件について明かした。それと同時に、捕虜郵便はがきの開始についても発表した。それは二枚一組が見開きになった赤十字はがきを、一枚は日本人軍事捕虜が、もう一枚は日本からの返信用に利用するとの内容だった。
 これまで、多くの国の捕虜郵便はがきは、使用可能な言語に制約を設けたり、記述する文字をブロック体に限ったり(筆記体は不可)、使用単語数を制限したりすることで、膨大な量のはがきの検閲を効率的に処理しようとしていた。戦時中日本がタイに設けた俘虜収容所でも、連合国軍の捕虜が自由に記述できる内容は最低限に留められていたという。
 ではソ連での捕虜郵便はがきの検閲はどのように行われたのか。ソ連指導部は、捕虜郵便はがきを通じてソ連にとって不利になる「不必要」な情報を外部に漏らしたくなかった。すでに抑留から一年以上が経過し、多くの日本人軍事捕虜が死亡していたが、はがきには死亡者名や死亡者数、衰弱者名や病院名、労働作業内容、そして収容されている収容所の所在地を書くことを固く禁止した。そして、全ての捕虜郵便はがきはウラジオストク郵便局の検閲課を通過し、検閲済みのスタンプを押されたものだけが、家族や縁者のもとに届けられることとなつた。
 クルグロフ内相が1946年10月22日に発令した内務省令第939号「日本、満州、朝鮮半島在住の家族による日本人軍事捕虜との郵便手続きに関する指導の実施について」では、次のように定めていた。

 1 日本、満州、朝鮮半島在住の家族による日本人軍事捕虜との郵便手続きに関する指導を実施すること。
 2 沿海地方ソ連内務省管理局長ミハイル・シシュカリョフ陸軍少将は、二〇日間で内務省業務管理局に日本人軍事捕虜の郵便物受発信を検査する軍事検閲所を設置し、定められた定員数に従ってスタッフを補充すること。
 3 ハバロフスク地方ソ連内務省管理局長イヴァン・ドルギフは、軍事検閲部門の人員補充のため、日本語通訳を一〇人選び、彼らを正規職員として早急に派遣し、沿海地方ソ連内務省の指揮下に入れること。
 4 ソ連内務省企画部長ミトロファン・ポポフ工兵大佐は、一九四六年七月二七日付ソ連閣僚会議令第9302Pc号に従い、1946年第3、第4四半期には二〇トン分の軍事捕虜の二枚つづり〔見開き〕のはがきを製造するため、ソ連内務省軍需品管理総局の配給切符またはパンチカード用紙での資金提供を得ること。ソ連内務省の本計画には一九四七年分の経費も含まれている。
 5 ソ連内務省軍事供給本部経理部ヤコフ・ゴルノスタエフは、ハバロフスク地方軍需品課を経由して、ザバイカル軍管区政治部『日本新聞』編集部の印刷所で規定のはがきサンプル用紙を作り、ソ連内務省軍事捕虜抑留者業務管理総局の作業命令書に従って、それらを適時内務省・内務省管理局へ発送すること。〔後略〕

 この内務省令第九三九号では、さらに三カ月に一回はがきを郵送すること、収容所生活における規律違反や過失があった場合には、はがきを書く権利を三カ月から五カ月間剥奪すること、剥奪の決定権は収容所の管理局長に委任すること、読みやすい字体で書くこと、自分自身の健康状態、生活環境、政治的信条のみ書くことを許可すること等が定められていた。

 1946年10月24日、チェルニショフ内務次官が発令した内務省令第九四三号では、収容所管理局に日本人軍事捕虜の通信員を、ウラジオストク郵便局管理部へ遅くとも一〇月二五日までに派遣するよう命じていた。一〇月二二日のクルグロフ内相による内務省令第九三九号が出て間もなくのことであるから、ウラジオストクから遠くない範囲の収容所、おそらく『日本新聞』社があり積極的な政治活動を行っていたハバロフスク市から、ロシア語が堪能で「民主的」(ソ連に友好的)な日本人スタッフを派遣したと考えられる。そしてチェルニショフ内務次官の1946年0月24日付第九四三号指令は、ウラジオストク郵便局で組織的に管理体制を敷き、派遣する日本人軍事捕虜を適正に教育し、彼らへの工作を強化することも指示していた。
 日本からソ連へ届けられたはがきもウラジオストクで検閲された。ソ連側の検閲担当者として作業に関わった日本人軍事捕虜を帰還後に調査した米空軍の記録が米国立公文書館に残されている。それによると、タイシェト、イルクーツクそしてハバロフスクの収容所に抑留されていたツタオカ・カズヨシは、抑留中にロシア語を習得、ウラジオストクではソ連内務省司令部に雇われ日本から届いた郵便はがきの焼却を命じられた。焼却された郵便はがきは検閲で不合格となったもので、毎回籠一杯はあったという。ツタオカ自身もソ連から一〇通以上のはがきを書いたが一通しか家族のもとに届かず、日本の家族からはツタオカのもとへ三通のはがきが届いたが、家族は数えきれないほどのはがきを送ったと帰還後に明かしたという。
 日本から送られてくる返信用はがきの宛先には、ソ連政府が特別な私書箱を設けたケースがあった。内務省第九七収容所の軍事捕虜はウラジオストク第九七私書箱宛て、第一〇七四特別病院の捕虜はウラジオストク第一〇七四私書箱宛て、ソ連軍事力省第三〇八作業隊の捕虜は、ウラジオストク第三〇八私書箱宛てとすることが定められていた。
 このように、将校用などの特殊な収容所や特別病院にいる日本人軍事捕虜宛ての郵便は私書箱を区別し、日本から送られてくる郵便はがきを別途検閲した。
 米占領軍も、捕虜郵便はがきのやり取りが開始されてすぐ、届いたはがきを検閲していた。例えば、一九四六年一二月に調査した一三通のはがきのうち、ソ連は素晴らしい国/ロシア人は親切と書いた者が六人、「友の会」/『日本新聞』/ソ連の教化について書いた者が四人、日本で新しい国を建設すると書いた者が三人、ソ連で何不自由なく生活していると書いた者が二人、労働が楽しいと書いた者が一人いた。シミズ・コジロウは、『日本新聞』が収容所で配布されていることや「友の会」を創設したこと、タカダ・ピサオは、ソ連で手厚い保護のもと生活し収容所では捕虜のようには扱われていないこと、マツダ・ヒデキチは、ソ連の政治体制は非常に良く、政治運動を始めたが啓蒙活動は難しい課題だと書いていた。
 ところが、米占領軍が注目したのは、はがきに書かれた内容だけではなかった。全てのはがきはウラジオストク郵便局から発送されていたが、返信用はがきの宛先の私書箱は全て異なっていた。米側は、はがきに書かれた私書箱の番号がソ連の収容所番号であると理解し、日本人軍事捕虜が配置されている場所を調査、宛名に書かれた日本にいる家族や友人と思われる人物の名や住所をも記録した。ロシア公文書史料には、軍事捕虜に対して収容所を特定できるような記述を禁止したと書かれていたが、収容所番号は1946年12月に帰還が始まった後は帰還者が証言し得ることであり、ソ連当局自身が返信用の宛先に収容所と同じ私書箱番号を設けるという単純で工夫のない方法を用いたことは、米国に対して情報を覆い隠しておきたいソ連にとって大きなミスであったと言えよう。
 そのほか、米占領軍は帰還者を対象にソ連の検閲について調査していた。ハバロフスク第四四収容所にいたウチダ・トシキは、収容所で家族からの黒く塗られた検閲済み郵便はがき三通を受け取ったと証言している。また、レニンスク・クズネツキイ第五〇三収容所で三年間抑留されていたヤマセ・イチロウは、ソ連抑留期間中、一通もはがきが届かなかったこと、自身が送ったはがきは一九四八年に帰還した後、六カ月経ってから届いたことを証言している。
 作業中に肩甲骨を負傷しマンゾフカに抑留されていたアキタ・セイジは、二通のはがきを日本へ送り、二通の返信を日本から受け取ったと証言している。はがきには、「みな健康であり、近く会えるのを楽しみにしている」といった内容が数行書かれていただけであり、いずれも検閲の跡はなかったという。
 日本外務省の調査記録によると、一九四六年から一九五〇年九月までに日本へ到着した日本人軍事捕虜からの郵便はがきは、合計115万3968通とされている。『読売新聞』は一九四六年一二月三日、ソ連からはがき八万通が届いたと報じ解郵便はがきの到着数が最も多かったのは一九四七年で、4月10日付24万4563通、5月7日付2万4400通、6月12日付1万通、7月3日付1万6000通が日本へ送られた。
 米占領軍は、当時日本国民を監視下に置き、その思想と情報を統制し、情報を収集するために郵便物の検閲を行っていた。中でもソ連から送られてくる郵便はがきは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように説明しているのか、ソ連による思想教育がどの程度軍事捕虜に定着しているのか、反米親ソ勢力の活動家は誰なのか、といった情報をもたらすものであった。従って、郵便はがきでソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べたり、ソ連の政治教育に活発に参加する「アクチブ」であると推測されるような内容を書いたりした人物は、要注意リストに加えられていたことは想像に難くない。日本人軍事捕虜の郵便はがきの情報が米国の占領政策にどのように活用されたのかは今後詳しく研究されるべきだが、米空軍の調査9において、ソ連からの帰還者に対し、徹底して郵便はがきの検閲の有無やはがきの実際の送受信数を調査していたことは米国の警戒感の表れと指摘できよう。
(P81-P87)

最終更新 2022.2


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