シベリア抑留参考書
イワン コワレンコ/著『対日工作の回想』加藤昭/監、清田彰/訳 (1996/11)文藝春秋
太平洋戦争で、日本が敗北すると、ソ連との間ではジャリコーボ村で極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥と秦彦三郎関東軍総参謀長との間で、停戦協定が締結された。交渉と言うより、勝者が敗者に指示を出すと言った会談だった。この会談に通訳として参加したのが、本書の著者のイワン・コワレンコである。瀬島隆三もこの会談に立ち会っている。
コワレンコは、終戦後はシベリア抑留日本人への共産主義化活動に携わり、浅原正基等とともに「日本新聞」を作成した。また、対日工作にも深く関与している。
コワレンコが真実を余すところなく証言したのならば、日本には立場がなくなる人がいるはずだ。このため、コワレンコの証言が、彼が携わった対日工作のすべてと考えることはできず、真実の多くは闇に包まれているのかもしれない。しかし、それでも、本書の証言はソ連と日本の関係を知る上で決定的に重要である。
本書の前半は、ジャリコーボ会談やシベリア抑留の話。後半は、対日工作の話として、日本共産党・社会党左派・自民党・民間団体とソ連との関連について記している。
シベリア抑留では抑留初年の死亡率が高かった。この時期、ソ連国内は戦争で疲弊していたため、十分な食料が行き渡らなかったことが大きな原因だった。しかし、ドイツ兵捕虜に比べても死亡率が2倍ほど高かった。なぜ、これほどまで、日本兵の死亡率が高かったのか、その原因について著者は関東軍将校の責任を第一に挙げている。
関東軍は捕虜になってからもほとんど一年半の間、旧天皇制軍隊の服従関係と従来どおりの軍規をそのまま残していた。その結果、将校は兵隊に下着の洗濯をさせたり、長靴を磨かせたり、炊事場へ食事を取りに行かせたりした。・・・しかし将校たちの最大の犯罪は、兵士の食糧のピンはねであった。兵隊に支給されるべき食料品のうち最良の部分が、将校たちの、より高い要求を満たすのに使われ、兵士には黒パン、おかゆ、薄いスープしか残らない状態だったのだ。その結果兵士大衆は、しょっちゅう腹をすかせ、体力が減退し、いろいろの病気にかかりやすくなってゆくのだった。死亡率も高かった。私は「日本新聞」の編集責任者として、将校による食糧のピンはねにすぐ気付き、再三、内務省(ベリアの管轄省)所属の軍人捕虜・抑留者問題総管理局に対して、将校を兵士から引き離すことを提唱した。しかし、総管理局の官僚たちは、旧日本軍の操典によって軍人捕虜の間に保たれていた苛酷な規律に大満悦であった。彼らは、この体制が崩れると収容所内の規律と秩序が乱れ、兵士の不服従と収容所全体のアナーキズムを招きはせぬかと恐れていたのであろう。(P54)
死亡率を高めた事情を調べてみると、厳しい寒さのほかに、兵士の配給食糧を将校たちが横領していたことが、第一の原因として浮かび上がってくる。・・・日本の兵士たちが一番こぼしていたのは、兵士に対する将校の横暴、将校たちによる給食ジェノサイドすなわち食糧ピンハネによる大量餓死者の発生への恐れであった(P92)日本軍将校による兵の管理は一年半後には終了し、その結果兵士の死亡率は低下した。
約一年半後、軍隊のすべての階級が廃止され、その結果兵隊の食事の量と質は目立って改善された。(P57)シベリア抑留された日本兵の初年度死亡率が高かった要因の一つに、日本軍将校の管理に原因があったことは確かだが、捕虜の管理の第一義的な責任はソ連側にあるのだから捕虜の死亡に対するソ連の責任は免れない。当時のソ連当局には、日本の軍隊がビンタで成り立っていたことや、日本人将校は日本兵から食料を奪い取って平気で死なせることが理解できなかったのだろう。
ワシレフスキー元帥は、多くの日本軍守備隊で、燃料、食糧、衣類の倉庫が炎上していることを取り上げ、だれが火をつけているのか知らないが、倉庫が燃えることによって、軍人捕虜への物資供給に支障をきたすことになるから、留意してほしいと述べた。ソ連軍総司令官は、あらためて次のように言明した。日本軍が証拠書類を焼却して隠滅したことはよく知られているが、食料・衣料を含む軍事物資も焼却している。ソ連軍はこのような日本軍の悪質性を理解していなかったのだろう。ドイツ兵はソ連領内で捕虜となったのに対して、満州を支配していた関東軍兵士には、食料や衣料の備蓄も多かったと思われるが、有効利用されなかったのは残念だ。
「高級将校はみな二ヵ月分の食糧の予備と間近い冬に備えて防寒用品を携帯してもらいたい。二ヵ月後には全関東軍がハバロフスク経由で復員するのだから、衣食のストックを携帯する必要はないといううわさが日本軍の中で広まっているようですので、こんなうわさをただちに止めさせるよう、日本の将軍その他権威ある人たちと真剣に話し合ってもらいたいのです。捕虜の取り扱いをどうするかまだ決まっていません。というのはまだ外交官がこの仕事に着手していないからです。国際諸条件にもとつく軍人捕虜の処遇を含めて、多くの問題が外交ルートを通じて処理されることになっています。」
秦中将は、日本の軍人の間にそういううわさが広まっていると聞いて驚き、ワシレフスキー元帥閣下が言われたことをすべて、最高指揮官らに伝えると約束した。 (P33)
田中は歩きながら話し始めた。
「モスクワでは合意に達しえたはずですが」
何がじゃまになったのですかと私はちょっと意地悪く尋ねた。「もうああいう機会はないですよ。歴史的チャンスを逃しましたね」
「そうです。私がこの前お会いした時のあなたの警告をまじめに受け止あなかったからです。モスクワのロシア人より、アメリカ人の方を心配していましたからね。もっとも近い同僚たちと意見調整したプランが私の手もとにまだなかったのですよ」
「どんなプランですか。秘密でなければ話してください。どうせ列車はもう出てしまったのですから」と私は若干皮肉をこめて言った。
「簡単に言うと次のような計画です。南クリル諸島の主権はソ連に残りますが、ソ連はいわば賃貸借権にもとついて、向こう二五-三〇年間、ソビエトの漁業者と対等の立場で、ソ連領海の四島周辺での日本の漁業者の操業を許可する、というものです。つまりジョイント・ベンチャーのようなものです。漁獲割当量、漁獲高の配分、双方の物質的負担は後に合意することができます。割引価格で支払いをさらに増やすという条件で、漁獲割当量全体の六〇%を日本側にもらえるなら、この計画は必ず成功したでしょう。日本には魚が必要であり、ソ連には主権とそして魚も必要です。これらの島を日本に引き渡せば、そこに米軍基地を作らせることになるという貴国指導者たちの認識は正しい。ソ連がこれに応じられないのは私にはよく分かります」
「どうしてあなたは日本の通訳を介しないで、ソ連代表団長に直接それを話さなかったのですか? 私たちはそれをソ連の提言のようにして外交ルートやマスコミを通じて推進することができたはずです。つまりソ連と日本で世論を盛り上げることができたと思います」
「勇気が足りなかった。ソ連側は私のアイディアを退けるだろうし、アメリカは非難するだろうと思ったのです。もう少し後で、頃合をはかってこのプランに立ち返ろうと思っていたんだが、そうした機会に恵まれず、私自身起訴され、二億円の保釈金を積んで釈放されるような始末だ。私の活動はこのようなみじめな結果に終わった。列島改造計画は葬り去られてしまった。日本人の貧欲さと子どものような単純さのせいでこうなったのです。一見何の危険もないような航空機会社『ロッキード』が、巧みにカムフラージュされたCIAの組織だなどとだれが考えることができたでしょうか」(P201-P202)
最終更新 2022.2