日露関係史参考書

原暉之/編『日露戦争とサハリン島』(2011/10)北海道大学出版会

 

日露戦争期あるいはその後ののサハリンに関する13人の研究論文。

序章  日露戦争期サハリン島史研究の概観と課題 原暉之
第一章 見捨てられた島での戦争  ―協会の人間・人間の境界― 天野尚樹
第二章 開かれた海の富と流刑植民地 ―日露戦争直前のサハリン島漁業― 神長英輔
第三章 先住民の島・サハリン ー樺太アイヌの日露戦争への対処― 田村将人
第四章 二〇世紀ロシア文学におけるサハリン島 ―チェーホフと流刑制度の記憶― 越野剛
第五章 退去か、それとも残留か ―1905年夏、サハリン島民の「選択」― 板橋政樹
第六章 ポーツマスにおけるサハリン ―副次的戦場から講和の中心問題へ― ヤロスラブ・シュラトフ
第七章 日本領樺太の形成 ―属領統治と移民社会― 塩出浩之
第八章 日露戦争後ロシア領サハリンの再定義 ―1905〜1909年― 原暉之
第九章 民族学者プロニスワフ・ピウスツキとサハリン島 沢田和彦
第一〇章 ビリチとサハリン島 ―元流刑囚漁業家にとっての日露戦争― 倉田有佳
第一一章 日露戦後の環日本海地域における樺太 ―新潟県実業視察団を通じた考察― 三木理史
第十二章 北海道・樺太地域経済の展開 ―外地性の経済的意義― 白木沢旭児
終章 サハリン/樺太の一九〇五年、夏 ―ローカルとグローバルの狭間で― デイヴィッド・ウルフ(鶴見太郎訳)
 
 日露戦争の時、『捕虜となったロシア将兵にたいして、日本は人道的に対応した』『当時の日本軍は国際法を順守した』と言われることがある。日露戦争は、日本がヨーロッパと戦った最初の戦争なので、外国人記者などに、日本軍は残虐と言われないように、外国人記者の目が光っているところで、日本軍が国際法を順守したことは間違いない。また、松山収容所のように、ロシア人貴族の将校が多く収容されていたところでは、物売りの商人や体売りの日本人女性が群がったことも事実で、こういう人たちは、ロシア人捕虜を丁重に能うかっている。
 しかし、外国人記者の目が届かなかったサハリンでは、日本軍は極めて残虐であり、国際法など眼中になかった。本書第一章をはじめ、いくつかの章で、日露戦争当時サハリンにおける日本軍の残虐行為が記載されている。天野尚樹の一部を記載する。

P48〜P52 (天野尚樹)
 ・・・ウラジミロフカ教会の司祭で、名をアレクシー・トロイツキーという。トロイツキーは一九〇四年一月にサハリンにやってきた。妻と三人の子どもがおり、長男のウラジーミルは志願兵として第一支隊に従軍していた。
 トロイツキーによれば、日本軍が進出してきたとき、ウラジミロフカでは村中に白旗が掲げられていた。村の南端には赤十字の建物があったが、日本軍は赤十字旗を引き裂いて足で踏みつけにした。通りで銃弾が飛び交うのをトロイツキーは自宅から眺めていた。家の門が叩かれたので開けてみると、プジンという元看守の兵士が助けを求めてきた。隣の診療所にいくように勧めて送り出すと、プジンは目の前で銃弾を受けて死亡した。トロイツキーはその遺体に白樺の枝を撒いて隠そうとしたが、追いかけてきた二〇人ほどの日本兵に見つかってしまった。彼らは、プジンのポケットから金を抜きとり、トロイツキーに向かって大声を張り上げ、銃床でなぐりつけてきた。叫び声を挙げた長女の胸に日本兵のひとりが銃剣を突きつけると、彼女はそれを払いのけた。そこに一人の将校が現われ、トロイツキーに謝罪した。しかし、将校が立ち去ると、兵たちは妻から指輪を奪いとった。妻は、結婚指輪だけはどうにか隠し通した。家の中に入り込んだ日本兵は懐中時計とベルトを奪い、手ぬぐいを首に巻きつけて出ていった。その後にも別な兵の集団がやってきて、トロイツキーを小突きながら物置をあさり、外套を持ち去っていった。
 あたりも暗くなって家族を寝かしつけたが、トロイツキーは寝ずに起きていた。夜中の二時ごろ、門をたたく音が聞こえたので出ていくと、ライフルをもった日本兵三人と将校が一人入ってきた。将校が、丁寧な身振りでロウソクを所望した。将校はお礼に銀貨を二枚差し出した。トロイツキーが断ると、その将校は、起き出してきた息子に銀貨をあげた。トロイツキーは彼にタバコを勧め、将校は一服すると愛想よくおじぎをして出ていった。二〇分ほどして再び門が叩かれた。二つある門を両方開けてくれと身振りで頼まれたので開けてやると、二〇〇人近い日本兵が入ってきた。彼らは敷地内の畑で夜を明かした。
 ウラジミロフカの男性住民も、一つの敷地に集められて夜を過ごしていた。その数は三〇〇人近かった。北緯五〇度の島の夜は、七月とはいえ本州の二月並みに冷え込む。同時代のロシア人地理学者によれば、七月でも氷点下になることがあり、またひどい湿気は身に沁みるほどで、「シベリアの気候が容赦ないというならば、サハリンはその倍ひどい」という。
 夜が明けると、集められていた住民のうち、役人をはじめ半数が解放された。残る一五〇人は、五人ずつ縄につながれてタイガの森に連れていかれた。そのなかには、マヴラという農婦を母にもつフィリップ(二〇歳)とゲオルギー(一七歳)のゾートフ兄弟、農業を営むミハイル・クレコフ(二〇歳)やフェオクティスト・オトロシチェンコ(五〇歳)らの顔があった。流刑農民に編入されていたゲオルギー・ポギタエフ(三三歳)、やはり流刑農民でダリネエ村から連れてこられたマクシム・ホメンコ(四五歳)も一緒にタイガに向かった。彼らはみな、ウラジミロフカの北三〇キロほどの所にあるベレズニャキ村の教会に登録していた。
 かつてのウラジミロフカ、いまのユジノサハリンスク市の国立サハリン州文書館(二〇二年より国立サハリン州歴史文書館に改称)にはべレズニャキ教会の戸籍簿が残っている。その死亡欄にゾートフら六名の名前を見出すことができる。死亡日時は七月一一日、死因の項にはそろってこう記されている。「日本人によって殺害された」。
 トロイツキーによれば、タイガに連れていかれた約一五〇人の村民は二回に分けて射殺された。死体は浅く即められていたので、地面から足が出ていた。トロイツキーの教会に通っていたゴルブチンスカヤという女性は、二一歳と一九歳の二人の息子を失った。追悼儀礼に参加するといつも、彼女は悲しみのあまり気を失って倒れてしまったという。
 このときの証言は日本側にも存在する。第一三師団野戦砲兵第一九連隊第一大隊第四中隊に所属していた兵士の手帳の七月一一日の項には次の記述がある。鉛筆書きの臨場感を少しでも伝えるため、誤字などはそのままにしておく。

 (ウラジミリストク〔ウラジミロフカ〕)を戦領致、此の戦争にて、敵の、ホリョ、四〇〇余、此のホリヨウは、義男兵、事、正兵の外は、皆、鉄サツ〔銃殺〕致、候、其時私は此れを拝見致候へ共、実に、ゆかいやら、かわいそおやら、目も、あてられぬありさまなり

 また、冒頭に「文明」と墨字で記されている有賀長雄『日露陸戦国際法論』には、ウラジミロフカ戦に参加したという山本なる大尉の報告が収録されている。それによると、侵入した歩兵第四九連隊第二大隊は、武器をとった村の住民数百名に包囲されるもこれを撃退し、一五〇名ほどを捕獲した。彼らには統率する指揮官がなく、また制服も着用していなかったため、義勇兵とも民間人とも区別がつかなかった。ウラジミロフカの「土民」は「囚人」もしくは「流浪人」ばかりであって、仮に義勇兵だったとしても、国際法など知らない、それらと同等の存在である。したがって、彼らにルールを適用する必要などない。このような論理で、住民たちは罪人として扱われ、「取り調べの上百二十名計りを死刑」に処したという。
 ウラジミロフカの住民の犠牲はこれだけにとどまらなかった。村を占領した日本軍は住民の保護を約束したが、それが守られることはなかった。以下、長くなるがトロイツキーの証言を直接聞くことにしよう。

 軍事病院の下働きたちが自分たちをロシアに送還してくれるよう頼んだことがあった。彼らには言質が与えられ、リストに名前が記入されると、ウラジミロフカから一五キロほど離れた、かつてソロキノという集落があった窪地に連行され、向かって右側にあるタイガに連れていかれて撃ち殺された。その数は五六人といわれている(病院の下働きの数はもっと少ないので、離島を希望した他の住民もそこに加えられていたことになる)。同じ場所ではそれからしばらくのちにも、刑務所病院の下働きが二六人射殺された。このとき看守のマルケヴィチ氏も、日本の進軍中に上官の命令で橋に火をつけたからという理由だけで殺害された。日本兵たちは彼をガルキノヴラスコエで絞首刑にしようとしたのだが、どういうわけか執行されず、別な場所で残酷にとどめを刺されたのだった。マルケヴィチ氏は若くて仕事熱心な男で、結婚して日も浅く、二人の子供もいた。聞くところによると、奥さんはいま、実家のあるハバロフスクにいくこともできずにオデッサで暮らしており、ハバロフスクの家には刑務官ブルダコフの母親が住んでいるそうである。五六人が射殺されたときには、准医師のギリモヴィチ老も殺された。彼は、仕事の中身をよく心得ていて、ずいぶん前に刑期も終えて故郷に帰る権利を得ていたのだが、どういうわけか延期されていた。ギリモヴィチは、本当にとても優しい年寄りだった。何が彼らを破滅させたのか。故郷の空気を少しでも吸いたくてロシアに出ていくことを望んだのが罪なのか?のちにこの武勲について兵隊自らが住民たちに語り、撃たないで助けてくれと、どんなふうに命乞いしたかを話して聞かせていた。彼らはいまどこに?確かにタイガのなかだが、ひと所ではない。これは集団銃殺だったが、個別に殺された住民も多数いた。こんなこともあった。通訳がタイガから血まみれになって出てきたので、日本語のよくできるあるロシア人が彼に尋ねた。このロシア人は流刑囚の息子で自由民のアレクセイ・ベカリといった。どうして血だらけなのか?通訳は、拘束された義勇兵一人を殴り殺してきたところで、戦争してきたのだと語った。民間人の犠牲者は全部でおよそ三〇〇人にのぼった。日本人がダリネエ村で二人の民間人を路上で殺し、一週間以上も埋葬を禁じたのはいったいどういうわけなのか。私は憲兵隊に埋葬の許可を頼み、すでにウジのわいた彼らはようやく片づけられた。

 こんな軍隊を本当に文明的と呼べるのか。読者自身で判断してほしい。
 日本軍は、七月一六日にアルツィシェフスキーら南部の主力を降伏させ、同二四日には、北部平定のため、アレクサンドロフスクの北方約一ニキロにある第一アルコヴォに上陸した。リャプノブ率いる北サハリン軍は、さしたる抵抗をすることもなく、七月三一日に主力部隊が降伏した。公式記録によれば、ロシア側の戦死者は将校三名、下士卒八五名の計八八名とされる。しかしこの数は、明らかにその実相を表してはいない。ここには、一般住民の死者が含まれていないだけではない。義勇兵の戦死者も「ロシア人」の死者として数えられてはいない。そして、これらの死者の多輔、司令官ら主力がすでに降伏した後の、占領下星まれた犠牲者なのである。
 大江志乃夫が初めて紹介した、福井県大野郡羽生村(現福井市美山町)出身で、第=二師団歩兵第四九連隊所属の新屋新宅が故郷に宛てた手紙は、一九〇五年八月一五日からその行動が書き起こされている。

 突然に当中隊は特別之任務を授けられ、八月一五日汽船東洋丸に乗込みコルサコフ出帆、一回して西海岸マヲカに一七日無難上陸、二百余名之山賊的の敗残敵きを職滅する目的を以て益々進軍してノタサン川に至り、追路してノタサン川を逆り、検悪なる深山を越え、既にして東に下り、如何なる疲労も厭はず捜索したる結果、三十日正午に至りナイフチ川上流にて件の敵きに衝突して、約三時間激戦の後、彼れ等は進退窮まりて百八十名之者一同に白旗を掲げ降参せり。翌三十一日捕虜残らず銃殺せり。

 このとき、タイガに身を潜めて生き延びることができたアルヒープ・マケエンコフの目撃談によれば、日本兵は、ダイルスキー二等大尉率いる南サハリン軍第四支隊の「ロシア兵を樹木のところに立たせ、銃剣によって手足を釘づけにした」。そして、身動きのとれなくなった捕虜を「残らず銃殺」したのである。
 なぜこのような事態が起こったのか。まず客観的な事情として、戦時下のサハリンが情報の孤島と化していたことが挙げられる。・・・

P327,P328 (倉田有佳)
 実は、ビリチはサハリンの戦場における日本兵の蛮行の目撃者であり、証言者であった。本国への帰還直前の一九〇五年一一月三〇日、ビリチはニコライ主教を訪れ、次のような言葉で説明した。
 当時サハリン島には、外国人記者がいなかったため、誰の前にもヒューマニストぶる必要がなく、日本人はごく自然に本性を現した。多くの平和な住民が何の理由もなくなぐられ、女性は暴行され、また男性と同じように斬られたり銃殺された婦女子もあった。ロシアの囚人の多くが、「この連中は何の役にも立たない」という理由で、集団で銃殺された。気の狂った病人でさえ病院から引きずり出され、銃殺された。また、他の囚人たちは家畜のようにデカストリに連れて行かれ、食料も与えられず放っておかれた。

日本が講和会議開始申請後に樺太占領するに至った経緯について以下の記述がある。
P191,P192 (ヤロスラブ・シュラトフ)
 日本政府は、講和会議における立場をより強化するために、サハリン島を占領する決断を下した。当初、これに関する日本首脳部の意見は分かれていた。横手慎二によると、アメリカ大統領が日露両国政府に対して、戦争を終結し講和を結ぶと正式に勧告した六月九日に、日本の首脳陣は、すでに準備が整っていた樺太占領計画を実施することに前向きな姿勢をみせたが、一二日にこの決定を白紙に戻し、「せっかく得た戦争終結の機会を、この作戦で失ってはならないと考えた」。黒木勇吉によれば、講和会議前に至って桂首相や寺内陸相は「すでに講和の提議に接した以上、火事泥的に類するサガレン出征は、アメリカ大統領に対して如何にや」と消極論に傾
いていたようである。
 ところが、従来からサハリン占領を強く希望していた小村外相をはじめとする外務省と軍部の一部は、本件に対してより積極的な立場をとった。六月一四日、満州軍総参謀長児玉源太郎は大本営に以下のような飛電を送った。

 講和談判が、近き将来において開始せられんとする今日、この談判進行中に処する計画は、すでに策定せられあることを信ずれども、刻下における作戦の方針は、講和談判をしてなるべく速やかに、かつ有利に結了せしむるごとく策定せらるることを要す。換言すれば、絶対的に休戦を拒絶し、彼の痛痒を感ずるところに向かいて勇進し、談判一日を遅延せば、一日だけの要求が重大となるの感を起こさしむるを要す。

 そのためには、「サハリンに兵を進めて、事実上これを占領」する必要があると児玉は主張した。同日、山県参謀総長は児玉に宛てて、サハリン占領、ハルビンおよび露領沿海州方面への作戦を準備するように伝え、同月一八日に大本営は第三師団に「奨攻略作戦」を実施するように命じた。これで・サハリンへの攻撃は不可避となった。
 七月三日、日本政府は高平駐米公使の通知で、ロシア政府が休戦協定の締結を願っていることを知ったが、ロシア側は.この提案を秘密裏にアメリカ大統領から伝えるよう求めていたため、日本側はロシアの意向を無視することを決めた。そして、小村全権代表が講和会議の開催地ポーツマスに向かって出帆した日の前日、七月七日に日本陸軍がサハリンに上陸し、八月までに基本的に全島占領に成功した。このように、ポーツマス講和会議の直
前に、ロシアの領土が日本軍に占領されることになった。

最終更新 2022.2


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