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郡司成忠の墓
北千島開発
墓所:東京都大田区池上1-1-1 長栄山 池上本門寺(日蓮宗大本山)
郡司成忠は元海軍大尉。幸田露伴は郡司成忠の実弟。
開拓事業団「報效義会」を結成し、ずさんな計画で、北千島の探検・開発をめざした。
北千島には昔から千島アイヌが居住していた。1884年、根室県令・湯地定基らは、千島アイヌ全員をシコタン島に強制移住させたため、北千島は無人島になっていた。千島アイヌ強制移住の8年後に、郡司忠成は北千島に移住することを目指した。
1892年、千島移住を目指し「報效義会」を結成して、政府に補助金を要求するも断られ、募金をつのるも十分な資金が集まらないと、ボートにより千島を目指した。無謀でずさんな計画には新聞紙上で批判があったが、既に世間の注目を集めており、メンバーの中には仕事を辞めて千島移住を目指している者もいたため、強引に千島渡航を目指した。
1893年3月、郡司以下38名ほどのメンバーが5隻のボートで千島を目指したが、八戸沖で2隻が遭難し、19名が死亡した。このため、当初の計画はあきらめて、函館からは他の船に便乗して択捉島に渡った。その後も、偶然付近を航海していた商船や軍艦に便乗を頼み、捨子古丹島へ9人、占守島へ9人が到着した。この年、捨子古丹島に残留したもの全員が越冬に失敗して死亡した。占守島へ到着した9人のうち7人が越冬を試み、死者を出すことなく越冬に成功し郡司を含む6名が帰国した。翌年は、新たに5名が加わり6人が越冬を試み、3人が死亡した。このようにして、1893年から1895年の第一次北千島遠征は31人の死者を出して終了した。
第2次千島遠征は、1896年(明治29年)に開始された。この時は、ボートで航行するような無謀なことはせずに、汽船や帆船に乗船して占守島に渡った。当初は女性を含む57名だったが、その後、移住者も増え、缶詰工場も稼働して、最盛期には170名ほどになった。
1904年(明治37年)5月、日露戦争開戦を知ると、郡司は仲間18人を連れえカムチャツカに渡り、ロシアに対して陽動作戦の実施を試みるも、逮捕され捕虜になった。占守島に居住していた人たちの多くは択捉島などに引き上げた。日露戦争終結後、郡司成忠は解放されて日本に戻った。
参考書:豊田譲/著『北洋の開拓者 郡司成忠大尉の挑戦』(1994.3)講談社
郡司成忠の墓は五重塔の足元にある。池上会館から五重塔に向かう私道が五重塔に近づくとカーブするので、その右側に幸田露伴の墓や郡司成忠の墓がある。ただし、道に面していない。本門寺は墓地が幾つかに分かれていて、墓も多いので、あてずっぽうで探しても、見つけることは困難。
幸田露伴の墓、幸田家の墓、郡司家の墓が並んでいる。
郡司家の墓所 | 郡司成忠の墓 | 戒名: 報效院忠勇日偉居士 |
郡司成忠の墓石裏面 業績が書かれている |
幸田露伴の墓所 | 幸田露伴の墓石 | 隣は同じく幸田家の墓 |
池上本門寺は日蓮宗大本山の一つ。広い伽藍に堂宇が立ち並ぶ。周辺には脇寺がいくつかある。
山門 | 仁王門 | 本堂 | 日蓮聖人御荼毘所に立つ多宝塔 |
最終更新 2019.7
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