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石川忠房(いしかわただふさ)(石川左近将監)の墓

 旗本。ラクスマン使節の宣諭使。

 墓所:東京都新宿区原町2-20 幸国寺


 1792年、漂流民・大黒屋光太夫ら三名を送り届けるために、ラクスマンを隊長とするロシア使節が根室に来航した。ロシア使節の真の目的は通商にあると知った幕府は、目付・石川忠房と目付・村上義礼を宣諭使として、松前に派遣した。国是により通商はできないこと、今後通商を求めるならば交渉は長崎で行うことなどを説明し、通商交渉のための長崎入港を許可する信牌を与えた。
 ラクスマン一行は大黒屋光太夫らを日本に引き渡した後、平穏に帰国した。日本は国是を理由にロシアが求める通商を拒否したが、交渉の態度が紳士的だったので、ロシアの怒りを買うことはなかった。

 12年後に、レザノフを隊長とするロシア使節が来航した時、交渉に当たった遠山金四郎(遠山の金さんの父親)は、無礼な態度に終始し、信牌を取り上げて帰国させた。これが、レザノフの怒りを買い文化露寇につながった。

 石川忠房は、1797年、1798年には勘定奉行兼道中奉行となる。
 1801年に蝦夷地御用掛を兼務すると、根室、知床方面を巡検した。

 中山道安中宿は貧しい宿場だったが、50人、50疋の人馬を常備することが義務付けられ、この負担に苦しんでいた。安中宿住民の度重なる嘆願により、1822年、道中奉行・石川忠房は常備する人馬を25人、25疋に低減し負担の軽減を図った。このため、安中宿では石川忠房を生神として祀った。現在、この生祠が安中市史跡に指定されている。
 また、群馬県桐生市堤町、埼玉県鴻巣市八幡にも、石川忠房の生祠がある。


 墓は牛込柳町駅近くの日蓮宗・正定山・幸国寺にある。山門を入って左側の墓地の左奥が石川忠房一族の墓所で、正面中央が石川忠房の墓になる。立派な墓所なので容易に見つけることができる。

石川忠房の墓所は広い。場所は本堂左側の墓地の一番奥。
石川忠房の墓は正面

石川忠房の墓の正面
従五位下朝散大夫石川左近将監源朝臣諱忠房墓
石川忠房の墓の側面
六代 誠忠院殿篤信曜山日詠大居士



幸国寺は大通りに面していない 幸国寺山門 幸国寺本堂



群馬県安中市 石川忠房の生祠


場所:群馬県安中市安中3-20 三社神社内

三社神社は旧道の伝馬町交差点から東側に四軒目の横を北に入る。

石川忠房の生祠(左)、顕彰碑(中央) 安中市教育委員会の看板 三社神社参道


最終更新 2019.6


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