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小村寿太郎の墓
ポーツマス条約を締結した外務大臣・小村寿太郎
墓所:東京都港区南青山二丁目 青山霊園 1種ロ12号1側 (加藤友三郎墓の隣です)
駐韓国公使・三浦梧楼が王后・閔妃(注1)を暗殺(乙未事件)すると、日本は諸外国から大きな非難を浴びた。このため、日本政府は三浦梧楼を解任し、小村寿太郎が公使に就任した。閔妃暗殺の結果、日本は韓国政府を支配したが、これに対抗する韓国王・高宗はロシア公館に逃げ込んだ(露館播遷)。小村寿太郎はロシア公使カール・ヴェーバーと協定を結び、悪化した日ロ関係を立て直すとともに、朝鮮国王の王宮帰還を果たした。
日露関係では、伊藤博文や井上馨らのロシア融和政策に対して、小村寿太郎は山縣有朋・桂太郎・西郷従道らとともに、日英同盟・ロシア主戦論を主張した。
1904年、日露戦争が勃発すると、ロシアの満州占領に反対する英・米の経済支援を得て、戦争は日本に有利に展開した。しかし、国力に劣る日本は長期の戦争には耐えられず、ロシアも国内の反革命勢力の抵抗によって戦争継続が困難になったため、ルーズベルト米大統領の斡旋によってアメリカのポーツマスで、日本全権小村寿太郎はロシア全権ウイッテとの間で、講和条約(ポーツマス条約)に調印した。
日露戦争後、1908年にふたたび外相に就任すると、1911年に日米通商航海条約を調印して関税自主権の回復を果たした。また、伊藤博文が韓国の保護国化を主張したのに対して、小村は韓国を併合する強硬政策を推進するなど、一貫して日本の大陸政策を進めた。
墓所は鳥居を備え広い | 墓石 公爵小村寿太郎墓 |
墓の前には看板 |
注1)日本公使が暗殺した「閔」は国王の正妻だったので側室を意味する「妃」は誤りである。しかし、閔妃を暗殺した三浦は正妻の地位をはく奪し側室に貶めたため、その後の日本では「閔妃」の呼称が定着した。現在、韓国では諡号で「明成皇后」と呼ばれる事が多い。
最終更新 2019.5
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