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工藤平助(くどうへいすけ)の墓   (工藤元琳)

 『赤蝦夷風説考』著者

 墓所:東京都江東区深川2丁目16-7 双修山 心行寺 (浄土宗)

 江戸時代ロシアの南下を警告し、海防の必要性を説いた本のなかで、有名なものは、以下の3つである。
  工藤平助『赤蝦夷風説考』(1783年)
  林子平『三国通覧図説』(1785年)
  本田利明『赤夷動静』(1791年)
 また、蝦夷地勤務の折に、ロシアの南下の状況を記録した本に、羽太正養『休明光記』(1807年)がある。
 
 工藤平助の『赤蝦夷風説考』は、ロシアはヨーロッパからアジアにまたがる大帝国であること、および、近年ロシアが南下して蝦夷地に達することを示し、その上で国防強化とそのためにアイヌ教化・慰撫が必要であること、ロシアと交易をする事、蝦夷地を開拓する必要があることなどを説いた。本書は、老中・田沼意次により認められ、幕府による蝦夷地・樺太・千島の検分につながった。
 これら幕府による検分の結果、 『青島俊蔵・他 蝦夷拾遺(1786)』 『最上徳内 蝦夷草紙 (1790)』『高橋景保 北夷考証(1808)』 『間宮林蔵 北蝦夷図説』などが出版され、蝦夷地、樺太、千島への知見が広がった。さらに、漂流民・大黒屋光太夫がロシアから帰国すると、光太夫の聞き取り調査をもとに『桂川甫周 北槎聞略(1794)』 『大槻玄沢 環海異聞(1807)』が出版され、ロシアへの知識も広がった。

 工藤平助は仙台藩医の養子で藩医となる。医学のほかに、儒学・蘭学を学んでいる。藩医のかたわら訴訟ごとの仲介役などを行い謝金で巨万の富をなしたらしい。金に任せて、蘭書などを買い込み、これらの知識や、松前藩の勘定奉行だった湊源左衛門からの聞き取りをもとに、赤蝦夷風説考を執筆している。
 幕府による蝦夷地・樺太・千島の検分の結果、飛騨屋久兵衛が蝦夷地で搾取していることなど、赤蝦夷風説考の記述が正しいことが実証されたが、田沼の失脚により工藤が主張した幕府による蝦夷地経営は実現しなかった。


 工藤平助の墓は本堂左側にある墓地を入って、すぐに左に曲がって一番奥。すなわち、墓地の西側隅にある。
 心行寺は門前仲町駅6番出口から徒歩7分ぐらい。6番出口は大江戸線なので東西線からは少し遠い。駅から歩くと、心行寺の手前に深川ゑんま堂(法乗院 真言宗豊山派)、更にその手前に陽岳寺(臨済宗妙心寺派)と3つの寺が並んでいる。また、心行寺には福禄寿が祭られており、深川七福神の一つになっている。

工藤平助の墓
西側コーナーにある
墓石:正面は「工藤君元琳甫之墓」
側面には文字がびっしり刻まれている
墓石にひびが入っている
隣の墓石 「泰黙府君墓」
養親の工藤丈庵の墓らしい

工藤平助の墓は入って左折最奥 心行寺本堂 本堂前の看板
「工藤琳甫墓」とある


心行寺入口 心行寺には福禄寿が祭られている 隣は深川ゑんま堂


最終更新 2019.6


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