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栗本鋤雲(くりもとじょうん)の墓


奥医師、箱館奉行、勘定奉行、外国奉行

墓所:東京都文京区大塚五丁目2-7 善心寺




栗本鋤雲の胸像(高崎市倉渕町 東善寺)


 奥医師を務めていた時に蒸気船試乗に応募すると、このことを咎められ箱館に左遷された。1858年から1863年まで足掛け6年の箱館在勤中に、医学所(現、市立函館病院)開設や、樺太・千島巡視などを行う。また、フランス人メルメ・カションと出会ったのも、箱館時代だった。

 当時、函館には船乗りや稼業の男たちが多かったので、彼らの相手をする売春の女たちも多かった。彼女たちは貧しく、病気になってもロクな医療を受けられない状態だった。このような悲惨な状況の中で、鋤雲はじめ函館の医師たちは、救済のための病院建設を目指した。当時、ロシア領事はキリスト教の救済精神によって、病院建設を目指していたので、これに対抗する気持ちもあったのだろう。病院建設費用の多くは遊女屋から借り受け、遊女の治療費で返済した。鋤雲らが建設した病院では医師の多くが漢方医だったが、ここでは、種痘の接種も行われた。翌年、ロシアによる病院ができると、医療技術の高さなどのため、ロシア病院のほうが人気だったようだ。このロシアによる病院は明治以降まで存続した。

 病院建設の翌年、1862年(文久2年)、箱館奉行組頭に任じられ、同年7月から蝦夷地・樺太・南千島を巡視した。7月に箱館を立ち、西海岸を巡視しながら、8月5日に宗谷から樺太・シラヌシに渡った。樺太西海岸沿いに海路で北上し、8月15日にクシュンナイ(久春内)に至り、その後、樺太を横断し、東海岸のマーヌイから東海岸沿いに北上し8月29日にタイラカに至った。ここからは南下して、樺太南部のクシュンコタン(久春古丹)に戻った。鋤雲ら一行はここで200日を超える越冬をした。このため、鋤雲は幕府高官では樺太で越冬した最初の人物となった。3月10日、クシュンコタンを立って、20日に宗谷につくと、今度は、北海道東北海岸を巡視する。4月15日、標津に至りクナシリ島トマリ(泊)に渡り、島の北西岸を海路北上し、4月24日にエトロフ島タネモエに至り、5月9日には島の北端シベトロ(蘂取)に到着した。ここから引き返し、陸路タネモエに戻り、5月30日にクナシリ島に向かい、クナシリ島トウフツ(東沸)に上陸し、6月4日には北海道野付に戻った。この後、北海道南岸を徒歩で進み、7月初旬に箱館に戻った。
 この時の鋤雲の日記が「北巡目録」として残されている。

 蝦夷・樺太・千島の巡視が終わると、10月に江戸に戻った。1864年、フランス人メルメ・カションと再会する。また小栗忠順に頼まれ、横須賀造船所の設立に尽力する。これは、フランス人技術者を招聘し、フランスの機械を導入したものだった。またフランス語学校を設立したり、さらに徳川昭武の補佐としてパリ万国博覧会を視察するなど、主にフランスとの関係を密にした。
 明治5年、東京毎日新聞に入社しジャーナリストとなった。

参考文献:小野寺龍太/著『栗本鋤雲 大節を堅持した亡国の遺臣』(2010.4 )ミネルヴァ書房

函館病院や函館のロシア病院については、以下の資料に詳しい。
  函館市史 デジタル版 通説第1巻第3編第5章第13節−1 衛生
  函館市史 デジタル版 通説第2巻第4編第12章第1節−1 函館病院の解説と役割


 善心寺は大塚の先儒墓所に近い。栗本鋤雲の墓は本堂の裏、すぐのところにあるので、見つけやすい。

栗本鋤雲の墓
戒名:顕理院殿鋤雲日達大居士
栗本鋤雲の墓と栗本家の墓

善心寺 山門 栗本鋤雲の墓は本堂裏手すぐ
階段の上です

最終更新 2019.6


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