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黒田清隆の墓

 薩摩藩士。開拓使開拓長官。内閣総理大臣。樺太アイヌ強制移住。開拓使官有物払下げ事件。

 墓所:東京都港区南青山二丁目 青山霊園 1種イ1号9〜10 

墓所は広い 黒田清隆の墓石

樺太アイヌ強制移住

 1875年、樺太千島交換条約で樺太がロシア領になることが確定すると、樺太在住先住民は、日本国籍を取って日本に移住するか、ロシア国籍を取って樺太にとどまるのかを3年以内に決めることが義務付けられた。南樺太の先住民の内、三分の一程度、およそ850人は、樺太に近い宗谷に移住することを条件に日本国籍を取得した。
 当時、囚人を強制労働に使役して開墾を行っていた開拓使は、新たに宗谷に移住した樺太アイヌを使うことを目論んだ。1876年、黒田清隆は武装警官30名を使い、銃を発砲し樺太アイヌたちを脅迫して、対雁へ強制移住した。当時、樺太アイヌの説得にあたっていた松本十郎・開拓使大判官は黒田の強硬方針に反発して辞職した。
 対雁に強制移住させられた樺太アイヌは、漁撈を生業としていたため、農業になじめず、さらに疫病も重なって、大きく人口を減らすことになった。ロシア国籍を取得して樺太に留まったカラフトアイヌたちは、比較的恵まれた生活だったので(注)、日露戦争で南樺太が日本に割譲されると、ほとんどすべてもカラフトアイヌたちは樺太に戻っていった。

注)樺太アイヌ史研究会/編『対雁の碑―樺太アイヌ強制移住の歴史』 P233〜P237

開拓使官有物払下げ事件 

1881(明治14)年,開拓使官有物払い下げ事件が起こる。この年は「開拓使十年計画」の最後の年にあたり,開拓使によって設立された官営工場や牧場,船舶,官舎などを民間へ払い下げる誓願を開拓使の旧官僚が政府へ提出したことから事件が始まる。開拓使が投資した1400万余円の各種官有物をわずか38万7000余円で,しかも支払い方法を無利子30年賦とするものであった。そのなかには,開拓使麦酒醸造所(現,サッポロビール)も含まれている。
 開拓長官の黒田清隆は,払い下げの受け皿として新たな結社を創出しようと,同じ薩摩藩出身の五代友厚(1836-85)とはかり,「関西貿易社」という名の会社を起業した。政府内部では,前大蔵卿であった大隈重信の反対があったが,これを退け,同年8月,政府として許可した。
 それに対し,『東京横浜毎日新聞』,『郵便報知新聞』などがその内容を告発し,徹底した批判を展開するとともに,各地では不正行為をただす演説会が行われた。これらは,払い下げ先が黒田と五代であったことを薩摩閥の癒着と批判し,ついには開拓使の成果への批判に及んだ。やがて,この動きは自由民権運動に連動していく。事件の告発は,大隈が薩摩・長州閥の封じ込めをねらい,国会の早期開設を意図したものといわれる。しかし結果は,大隈の罷免というものになった。いわゆる「明治十四年の政変」である。なお,『東京横浜毎日新聞』はのちに大隈が設立する立憲改進党系の新聞となり,党の主張をその論説としていった。
 一方,黒田はいったんは辞職を決意するが,同郷の西郷従道(1843-1902,西郷隆盛の実弟),樺山資紀(1837-1922)の説得で政府にとどまった。西郷隆盛(1827-77),大久保利通(1830-78)という維新の英傑を失った薩摩閥の結束がみられる。
 これらの官有物,すなわち鮭や鹿の缶詰製造所や〆粕の製造所は,アイヌ民族にとって生業や生活の場を奪うものであり,そのうえに建設されたものである。大量の本州系移民の移住にともない,アイヌ民族の生活空間が奪われた。生業面においては,漁業では鮭漁が規制され,「ヤナ」といった伝統的魚法が禁止され,狩猟も鹿などの獣類捕獲が規制されていった。なによりも,山林や河川,原野といった空間が,「無主の地」として一方的に公有化され,アイヌ民族にとって生業の場が奪われていったのであった。政府高官や政商らがねらった開拓使官有物とは,アイヌ民族の犠牲のうえに建設されたものといえる。
<参考>加藤博文、 若園雄志郎/著『いま学ぶアイヌ民族の歴史』山川出版社 (2018/4) P80

最終更新 2022.7


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