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京極高朗(きょうごくたかあき)の墓  能登守、越前守

 旗本。文久遣欧使節目付。

 墓所:港区北青山2-12-29 青山 海蔵寺(黄檗宗) 


讃岐丸亀藩主の京極高朗とは同姓同名の別人。

 日本は諸外国と交わした修好条約で、江戸・大坂・兵庫・新潟の開港・開市を約束した。しかし、尊王攘夷運動の激化や天皇が大阪・兵庫の開港に反対したため、開港を延期せざるをえない状況になった。アメリカ公使ハリスは日本の状況を理解し開港延期やむなしとの判断をした。幕府は、欧州各国との間に、開港延期の同意を得るために文久遣欧使節を派遣した。
 使節は正使・竹内保徳、副使・松平康英(このときは康直)、目付・京極高朗(このときは能登守)を中心とする総勢36名(のち2名加わる)で、イギリス・オランダ・フランス・ポルトガル・ロシア・プロシアを訪れた。フランスに次いで訪れたイギリスとの間で開港延期交渉に合意すると、その後は、各国との開港延期の合意に成功した。
 文久遣欧使節には、開港延期交渉の他に、ロシアとの間で樺太の国境を画定する任務が与えられていた。
 この交渉で、当初、日本は北緯50度線を樺太の日露国境とすることを主張した。しかし、当時すでにロシアの勢力は北緯50度よりも南下していたこと、日本の勢力は南部のアニワ湾周辺にとどまっていたことから、日本の主張は受け入れられることはなかった。しかし、日本の勢力が樺太南部に及んでいたことも事実なので、ロシアにも樺太全島がロシア領であるとする根拠はなく、さらに、はるばるロシアにまで来たことに対して好意を示すために、ロシアは北緯48度線をもって両国の国境とすることを提案してきた。これに対して、正使・竹内下野守、副使・松平石見守は、調役勘定役徒目付以上の者を集め、ロシアの提案を受諾し国境を画定したい旨を伝えたが、目付・京極能登守高朗が日本の国土を失ってはならないと強硬に反対したため、国境合意はできなかった。
 このように、頑迷固陋な保守官僚だった京極高朗が状況判断を誤り、その後の樺太国境交渉に大きな禍根を残すことになった。
 
 帰国後、京極高朗は神奈川奉行・長崎奉行などを務めた。


 墓所は本堂裏側にある。京極家の墓は墓所中央にあって広い。

 海蔵寺は青山通りと外苑西通りの交差点近くの交通量が多い場所にある。山門をくぐると、マンションのような雰囲気の本堂で、そのまま進むと墓地に出る。

京極高朗の墓
越前守大信京極府君之墓
墓石には漢文がびっしり

京極家の墓所
広いけれど雑草が多かった
山門越しに見た本堂
本堂はマンションの雰囲気
真っ赤な山門


最終更新 2019.7


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