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松田道之(まつだみちゆき)の墓

 琉球処分官。琉球を武力占領し日本に強制編入させた。

 墓所:東京都港区南青山二丁目 青山霊園 1種イ6号9側 

 1875年(明治8年)、日本政府は松田道之らを琉球に派遣して、清国との冊封関係を廃止し清国との外交関係を断つことを命令をした。1874年に副島外務卿と「琉球の国体・政体は永久に変わらず、清国との交通もこれまで通り」との確約文書を交わしたが、この約束は一方的に反故にされた。琉球王府は国家存亡に関する重大事態と認識し、これまでの清国との関係を保持できるように嘆願した。さらに、1876年(明治9年)には、幸地朝常・蔡大鼎・林世功らを密かに清国に派遣して、琉球の救済を嘆願した。清国政府は初代駐日大使・何如璋を通じて、清国と琉球との関係を一方的に断とうとする日本政府の対応に激しく抗議した。
 1879年3月、松田道之は軍隊・警察官600人余りを引き連れて首里城に入城し、琉球王府を接収した。 4月4日、琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告し、翌日鍋島直彬を沖縄県令に任命し、さらに、 琉球王を東京に居住させた 。
 日本の処置に対して、琉球王府内での反発は強く、また清国も強く抗議した。
 
 1880年3月、日本と清国の間で琉球問題を解決させるため、アメリカ前大統領グラントの斡旋で、日本政府は奄美・沖縄地区を日本領とし、宮古・八重山地区を清国領とする分割案を提案した(先島分割案)。同年10月、日本側代表宍戸・井上毅と清国側諸大臣との間で先島分割案で妥協した。これに対して、琉球から清国へ亡命した者から先島分割案反対の嘆願が繰り返し出され、さらに林世功の抗議の自殺により清国政府は衝撃を受けて条約案は棚上げになった。

 
 松田道之の墓地には巨大な墓誌が建てられているので遠くからもすぐわかる。墓誌が巨大なので近くからは上の方の文字は読めないし、離れると文字が小さくて読めない。読むことを目的としたのではなくて、単に虚勢を張っただけなのだろうか。田舎者のやりそうなことだ。
 松田道之は鳥取県出身。

墓地には巨大な墓誌が立つ 墓誌
松田道之顕彰の文が刻まれているはず
墓石

最終更新 2019.7


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