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村垣定行(むらがきさだゆき)の墓


 江戸時代中期の旗本。御庭番。1806年(文化3年)蝦夷地を視察。1807年(文化4年)10月、松前奉行。さらに勘定奉行を務める。

 墓所:東京都千代田区麹町六丁目4-2 心法寺

 村垣定行は村垣範正の祖父に当たる。
 文化2年(1805年)5月、ロシア使節レザノフ一行が宗谷に上陸して、数日滞船する事件があった。幕府は8月、目付遠山景晋、勘定吟味役村垣定行に松前および西蝦夷地の視察を命じた。村垣定行は途中病気になったため、翌年3月に松前に到着し、先に到着していた遠山景晋と共に、宗谷を巡検して、8月に江戸にもどった。この時の記録が「西蝦夷日記」として幕府に提出されている。
 文化4年(1807年)10月、松前奉行となるが、文化9年に病のため辞職した。その後、作事奉行、勘定奉行を務める。


 心法寺は四ツ谷駅麹町口(東側)を200mほど東に歩いてすぐ。国道20号に面しているわけではないが、分かりやすいところにある。
 村垣家の墓は本堂の後ろ側すぐのところ。ここは、正面に「村垣家之墓」の墓石があって、右側に古い墓石が多数ある。このうち、3つ並んだ中央の墓石には淡路守とあるので、これが村垣範正の墓だといわれたこともあった。しかし、範正の墓は日暮里の天王寺墓地にあり、ここにはないそうだ。
 村垣定行の子・村垣範行の長男が村垣範成で次男が村垣範正なので、村垣家代々の墓は範成の子孫が継承しているのだろう。
 この墓石には「泰麟院殿従五位下前淡路守興誉豊山徳風大居士」と刻まれている。最後の2文字は読めないが、位号の「大居士」だろう。「豊山」が道号で、「徳風」が狭い意味での戒名。村垣定行は「豊吉」とも呼ばれており、道号に「豊」の字が入っているので、これが村垣定行の戒名と考えられる。さらに、定行は松前奉行在職中に従五位下淡路守となっているので、この点も符合する。


村垣家の墓の墓石 右側に古い墓石が多数ある。
3つ並んだ中央の墓石が村垣定行のもののようだ
村垣家の墓全景。他家の墓地に比べ広い。

村垣家の古い墓石 村垣家の古い墓石


心法寺
入口には千代田区教育委員会の看板
心法寺本堂 心法寺梵鐘


最終更新 2019.5


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