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小栗忠順(おぐりただまさ)の墓  小栗上野介

 文久元年のロシア艦対馬占領事件の解決に外国奉行としてあたるが、自分の案が幕府に聞き入れられないと外国奉行を辞任した。

 墓所:群馬県高崎市倉渕町権田169 諏訪山 東善寺 (曹洞宗)
 墓所:東京都豊島区南池袋4-25-1 雑司ヶ谷霊園 1-4B-5
 墓所:埼玉県大宮市大成二丁目402 大成山 普門院 (曹洞宗)

 墓所:東京都中野区上高田1-31-2 盛高山 保善寺 (曹洞宗)

 小栗忠順は江戸時代末期の旗本で、外国奉行や勘定奉行を務めた。万延元年遣米使節、すなわち、ハリスと結んだ日米修好通商条約の批准書を交換する目的で派遣された、総勢77名の大型使節団に目付として加わった。目付は正使・副使に次ぐナンバー3の地位である。
 小栗忠順は批准書交換のほかに、通貨交換比率交渉および造船技術をはじめとした先進技術の視察を目的としていた。

 帰国後、目付から外国奉行に昇進すると、翌年ロシア艦対馬占領事件がおこる。小栗は立ち退き交渉ため、対馬に出張する。第1回会談で、ロシア艦長は対馬藩主との面会を求めたのに対し、小栗は認める約束をするも、その後の会談で前言を翻し、ロシア艦長の怒りを買う。立ち退き交渉は失敗し、幕府に対策を提案するも受け入れられず、小栗は外国奉行を投げ出した。
 その後、勘定奉行に就任し、横須賀製鉄所(造船所)の建設を図り、フランスから機材を購入し技師の派遣を求めた。大政奉還が決まると、これに反対し、将軍に意見するもあっけなく退けられ、勘定奉行を解任された。その後、領地のあった現・群馬県高崎市倉渕町権田に隠棲した。


 小栗忠順は慶応4年に官軍により烏川の水沼河原で斬首された。遺体は東善寺に運ばれ埋葬された。一説によると、首はすぐに高崎に送られ、翌日、高崎城内で家臣三人と共に斬られた養子・又一の首と共に館林城内に送られ、岩倉具定の首実検を受けた後、父子の首は群馬県館林市朝日町の法輪寺境内に埋められた。その後、権田村人が法輪寺から盗み出し、東善寺の墓に葬った。



 雑司ヶ谷霊園には小栗忠順死後に生まれた国子の婿養子・小栗貞雄が大正元年に建立した小栗家累代の墓がある。小栗貞雄は新聞記者・実業家・衆議院議員などを務めている。マンガ家「小栗かずまた」は小栗貞雄の曽孫。
 小栗本家の菩提寺は、牛込(明治37年、中野に移転)の曹洞宗保善寺にあったが、小栗貞雄が雑司ヶ谷霊園に移した。

 保善寺にあった墓所は撤去されたが、墓石が無縁仏の墓に集積されているとのことだ。

雑司ヶ谷霊園 1-4B-5
小栗家累代之墓
墓石の裏面と側面
墓石裏面には小栗忠順の名がある




 埼玉県大宮市大成の普門院は、安土桃山時代から江戸時代初期の戦国武将・小栗忠政が大成領主となった際に復興させ、自らの墓所を築いた寺で、小栗忠政一族の墓所は市の文化財に指定されている。普門院には尖閣諸島の前所有者で不動産屋の栗原家墓所がある。普門院の中で一番広く立派なのが栗原家のもので、栗原家に比べればだいぶ小さいが多少は広いのが小栗一族の墓である。

 小栗忠順は慶応4年に官軍により烏川の水沼河原で斬首された。一説によると、斬首された後、さらし首になっていたものを、難を逃れた小姓・銀之介が、闇に乗じて首を大宮・普門院に持ち帰ると、大猷和尚は丸石を置いただけの粗末な墓を作った。

 小栗忠政や子供の墓は普門院にあるが、その次の代になると、小栗本家の墓は牛込(現在は中野)の曹洞宗保善寺に移され、普門院は分家筋の代々の墓となったとの話がある。小栗忠順は本家筋の当主なので、普門院は忠順の菩提寺ではないだろう。

 

大宮市 普門院の小栗一族の墓所

最終更新 2019.6


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